風が聞こえなくなった少年
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[あらすじ]
ある日、突然風が聞こえなくなり、熱を失っていた少年は、あるキツイ出来事を通り抜けたことによって、自分を取り戻す。
風が聞こえなくなった少年
「それで君はどうしたの?」加奈子さんが聞いてくる。加奈子さんはそれが人間の当然の行為であるかのように、薄い唇を手でさわっている。
 

 僕らは、駅の中にあるコーヒー屋で向かい合って座っている。顔と顔がとても近い。それが僕の胸を張り詰めさせる。

 「どうもしないですよ。ただ聞こえなくなったんだ。風の音だけが」

 「不便じゃない?」そう言うと、ラテを少し口に含んだ。僕が頼んだラテ。僕が口をつけたところが少しだけ気になった。

 「ただ寂しいだけです。特にバイクに乗ってるときにそれを感じる。だから、音楽を聴くことにしました」

 「危なくない?」

 「危ないですよ。でも他の人は風の音が聞こえてるんだ。フェアじゃない」
 
 「公平さの問題かな。君の乗ってるやつなんだっけ?あの深緑(ふかみどり)の」

 「スーパーカブです」
 「どうしてそんな時代遅れのに乗るの?」

 「ニュートラルのミドリ色の光が好きなんです。それと、カブって40キロ超えると赤いランプが燈るんですよ。それがなにか悪いことしてるみたいで好きだ」

 「それが理由?」
 「まあそうです」
 「変なの」
 そう言って加奈子さんは眉間に皺をよせ、顔をくしゃくしゃにしながら、風の話をごまかすように笑った。
それが人間の当然の行為であるかのように、右手で前髪を横にやりながら。








風の音がすっかり聞こえなくなってから、数えて一年が過ぎる。今では聞こえていた頃のことがうまく思い出せない。
ときを同じくして、左半身が原因不明の神経痛に襲われ、右目には飛蚊が縦横無尽に散るようになる。
慢性的に痛む左側。夜にならないと美しいものでさえ不快に映る右目。二十二歳にして心も身体も完全にやられていた。
 ここまでくると人間は発狂してトラックに突っ込みそうなものだが、そうはいかない。ただ、けだるく笑いショートホープを吸う。アルコール度数の高い酒をソーダで割って、それがまるでスプラッシュであるみたいに飲む。更に肺と肝臓を痛めつける。夜にアウトローを気取り、朝になると自己嫌悪に浸る。自己嫌悪から抜け出したくて、夜になるとまたアウトローを目指す。
血で血を洗ってもなにも解決しないと知ったときには、すでに身体中が真っ赤に染まっていた。



          

 今日が約束の日だと気付いたのは、ちょうどショートホープに火を着けようとしていたときだった。
 午後7時駅前のスターバックスで。僕が無理矢理とりつけた約束だった。ニコチンとアルコールで頭がザラついていたせいで、今日までそれを思い出せずにいた。
ピカソの絵がプリントしてあるカレンダーでもう一度確認する。間違いない。今日は加奈子さんと会う日だ。
ホープを肺の奥深くまで吸い込み、カレンダーに向かって吹きかけた。絵に描かれた女性らしき球体は少し煙たそうな顔をした気がする。キュビズムに振り回された天才ピカソの絵は、今の自分を投射して、必要以上に歪んでみえた。
 
加奈子さんとは、とある仕事で知り合った。

 僕は本職だけでは食えないからその仕事をして、加奈子さんは、高校の先生になるべく、受験費用を稼ぐためにその仕事をしていた。
 一年が過ぎ、加奈子さんは高校の先生になり、僕は本職でうまくいかず、世間的にはほぼ無職になり、身体に幾つもの不穏分子を抱え、おまけに風の音が聞こえなくなった。セットカウント2‐0、ゲームカウント5‐0のフォーティ‐ラブ。
 要するに、僕は落ちぶれていた。
 
 僕が最後に拠りどころにしていたのはいつも風だった。しかし今となっては、音どころか風の存在そのものがわからなくなりはじめていた。
そっけなく吹く風。所在無く吹く風。自分の鼻をつく様に吹いてくる清潔な南の風。そんなものがたまらなく好きだったのに。
海鳥を運ぶかのごとく吹く冷たい風、砂漠に人知れず吹く乾いた風、そんな風を想像するのが好きだったのに。自分にはなびかない風が憎くなりそうだった。なにもかも憎くなりそうだった。

なにをしても後ずさりしている様なジレンマに、左手を血が出る程強く握り絞めたが、なにも掴めていないことは予感していた。

しばらくして手を開いたが、予感通り空間を掴んでいただけだった。

        

 

言うまでもなく、僕は加奈子さんに恋をしていた。それも激しく。ひと目みたときから薄い唇に自分を重ねたいと思ったし、ずっと繋がっていたいと思った。女性に変わりの利かぬ程の個人的感情を抱いたのは、これが初めてだった。

言うまでもなく、加奈子さんには決まった恋人がいた。加奈子さんと同じ二十五歳。7年越しの恋人。なにもかもうまくいかぬ自分と、優しくてちゃんとした仕事をもつ素敵な彼。


僕はたったひとつ溜息をついた。


真っ黒な綿のタイトパンツをはき、上にトリッキーな柄のシャツを着た。その上に紺のジャケットをまとう。180センチ58キロ、体脂肪率9・8%。やせっぽっちの身体にそれはいつもピッタリときた。机に散らばった財布と、ホープと、どうしようもない色の百円ライターと、ウォークマンをジャケットに適当に放りこんだ。

洗面台に向かい散々不精に伸ばした髭を眺め、口髭だけを剃ることにした。全てをうまくみせようとすると、なにもかもカッコ悪く映る。死んだ祖父の口癖だ。
電気シェーバーを持たないことに決めている僕は、クリームをつけ安全カミソリで丁寧に髭を落としていく。案の定カミソリ負けした肌から血が滲んでくる。何度も親切な友達から電気シェーバーを買ったら?と助言されたが、僕は電気シェーバーが好きになれなかった。なんとなく、電気シェーバーの方も僕のことを好きじゃない気がしていた。
タオルで血を拭き取りながら、洗面台の錆びた鏡に向かって声を出してみる。
「余計なことは絶対に口にすまい。余計な期待も。そんなことをしても自分が悲しむだけだ。会うのは多分これで最後だろう」

あらゆる人の感情がからまる午後5時。僕のもつれたような低い声は、自分以外誰もいない部屋をゆらめきながら抜けていった。


決意をもって部屋の鍵を閉めると、足元を薄く光が射した。日が落ちきる前のオレンジ色の光が、空の低いところへわずかに残っていた。秋の空だ。黒と紺とオレンジが不均一に混ざり合って、なんだか綺麗だった。

スーパーカブにまたがりキーを回す。ニュートラルのミドリ色の光が妖しく光る。僕は怪しく微笑する。速度計のあたりを前戯するみたいに優しくふれる。名機とHONDAについて少しだけ考えを巡らす。
メンテナンスという概念を最近まで知らなかった僕は、名機はなにもしなくても動くと信じて疑わなかった。よってキックスターターのカブをウンザリするほど蹴らなければ、エンジンがかからなくなっていた。同時にチョークを何度も引っ張る。
17回目のキックでエンジンがかかる。気温が下がってからますますひどくなっている。
それからおもむろにウォークマンのイヤホンを耳にはめる。大音量で音楽を聴く。そんなことをしてるといつか死ぬよと、親切な友達は助言してくれたけど、止めようとは思わなかった。
周りの音を遮断してスロットルを回し切ったときの昂揚感はなににも変えがたかった。それに僕には風の音が聞こえないんだ。バイクに乗ってる間なにをしていればいい?標識でもみてろと?クソくらえだ。信号すらまともにみていないっていうのに。

ニュートラルからローへ踏む。カコン。ローからセカンドへ。カコン。セカンドからトップへ。カコン。カブが加速していく度に自分自身も加速していくかのようだ。

これから到着までは、自分の世界だと強く感じる。
ベースの重低音が僕の胸を焦がす。







 
 

駅の中央改札に隣接した駐車場にカブを止め、ヘルメットをロックし、次に前輪をロックした。
それから、乾燥したひとで溢れる駅前通りをゆらゆら歩いた。音楽に合わせて頭を振っていたら、通りすがりのサラリーマンに嫌な顔をされた。心から音楽を聴いたことのない奴の反応はいつもこうだ。この程度の男は、かわいそうなのは実は自分だということに気付けない。
三分ばかり歩き、角を左に折れるとスターバックスに着いた。6時50分。冗談みたいな話、女性との待ち合わせに遅れなかったのはこれが初めてだった。

中に入ると、加奈子さんはすでに席に着いていて江國香織の小説を読んでいた。
真っ黒のまっすぐ長い髪。深い黄色のニット。八分丈、紺のストレートパンツ。クリーム色の網かけソックスに、朱色の低いパンプス。かたわらには巻いてきた赤と黒のマフラーがたたんで置いてある。
そこはかとない雰囲気を持ってる女性だ。

胸がざわついた。真剣に手が震えてきたので、手をジャケットのポケットに突っ込んで、席に近付いた。奥まった所にある対面の席。加奈子さんが座っているほうは横に繋がったソファーで、対面はイスだった。
丸いテーブルは狭くて、コーヒーのトレイを二つ置けばそれで埋まってしまう大きさだった。僕の方向からみて右側に大きな柱があり、左側の席では女子高生二人組が大きな声で話をしていた。
 溢れるような緊張の中、不思議なほど細部を見渡せる冷静な自分もいた。ある種の逃避かもしてない。

 「それ、何を飲んでるんです?」僕は立ったまま言った。
 「これ?コーヒーだよ。キミキミ、ここはスターバックスですよ」そう言って加奈子さんは小説を横に置いた。イタズラに浮かべた笑顔に軽く目眩がした。
 「いや、ラテ的(てき)なものとかね。色々あるじゃないですか」
 「的(てき)の使いかたが変。別に国語の教師を振りかざすわけじゃないけど」
 「むむっ、攻撃的ですね」
 「そうだよ、知らなかったの?私は根性の悪い女」
 僕は曖昧な表情をした。そこが好きだった。
 「とりあえずなんか頼んで来ます。ラテ的なものを」
 「けっ」
加奈子さんはまっすぐ整った歯をみせて、顔を崩して笑った。

 注文を聞く店員の女性は疲れているのか、うんざりした顔で、うんざりした対応をしていた。スターバックスでこんな態度のやつはみたことがない。いつもテンションの高い対応にうんざりしていた僕は、どこかこの女性に好感を抱きながらラテを頼んだ。
 ラテのトールを待っている間、話そうと思っていたこと、余計なことは言うまいと思っていたことが、加奈子さんの笑顔でドロドロに溶けたことに気が付いた。
 ラグビーみたいに様々な想いが交差した。
 懸命に自分の中にあるなにかを探した。

こんなとき、風の音に耳を澄ますことさえできれば・・・

        
         

ラテを受け取り席につくと、加奈子さんは僕の顔をじっと眺めた。
 
「久しぶりだね。あのとき以来だものね。元気にしてた?」
 「まあ」僕は心の中で深呼吸をして気持ちを入れ直した。とりあえず自分の諸々の事情は出来る限り伏せようと思った。
 「ふうん。で、どうして私に会いたかったの?用事があるんでしょ?呼びつけたからには」
 「呼びつけたって。いや、まあちょっと話がしてみたかったんですよ。ゆっくりと」なんだか、急に恥ずかしさがこみ上げてきたので僕は口をとがらせた。
 
 「変な顔。わざとならいいけど無意識だとしたら女の子の前でその顔はしないほうがいいと思うなー」
 「一応、わざとですよ」
 実際に席についてみると加奈子さんと僕との顔の距離は1メートルないぐらいだった。二人の間に漂う妙な緊張感。面と向かって話せることはごく限られている。
 「君ってさ、角度によってはカッコ良いと言えるかもね」
 「それは褒めてる?それともけなしてるんですか?」
 「別にどっちでもない。ただの感想」
 「なるほど」どうしていいのかわからなかった。僕は変な笑みを浮かべて左手の親指で左の眉を左から右にこすった。
  
 少しの沈黙。加奈子さんは両耳に対のピアスをしている。ブドウみたいな青っぽい色。その色は加奈子さんにとても馴染んでいる。
 
 「仕事はうまくいってる?」
 だしぬけに加奈子さんが聞いてきた。

 「どうでしょう。順調とはいえないですね」
 僕は正直に言った。
「絵とかで生活していくのって大変だよね」
 「大変かどうかは問題ではないですけどね。なんせ、自分で選んだことですから」
 「止めたいと思うことはある?」
 「加奈子さんは先生辞めたいと思ったことはないんですか?」
 「あるよ。もちろん。でも私は始めに先生になりたいって想った動機が強いし。それにやっぱり子供達を信じてるところがあるの」加奈子さんはそれが人間の当然の行為であるかのように、まっすぐな目で僕を直視した。 

「そう、信じてるものがあるんです」
僕は自分の胸に左手のひとさし指を当てて軽く叩いた。

「君の信じてるものってなに?」

 「・・・風です」
 そう言った途端、自分自身に、最上級の矛盾とむなしさを覚えた。
 「風?かぜ・・・ん、どういうこと?」
 「ある日突然やってくる清潔な南の風とか、砂漠に人知れず吹く乾いた風とか。そういうのって素敵じゃありません?」風の話をする度に、口の中がガサガサした。
 「うん。素敵だね」
 「絵を描くとき、いつもそんな感じを頭のどこかでイメージしてて。なんというか、それが僕の絵を描く衝動の全てでした」
 「でした?」加奈子さんは眉間に少し皺を寄せた。
 「です」僕は苦笑いして言った。

ダンサーはもう踊れないのに、まだ踊れると強がるだろうか?
いや僕はまだ踊れないと決まったわけじゃない。
 自分のなにかを変えたくてここにいるんじゃないか。
 「なにか含みがあるなー。どうかした?」
 
 「いや別になにもね。ところで、僕は加奈子さんに告白しなければならないことがあるんですが」

 「えっ。なに」加奈子さんはとっさに構えた。
 
 「このラテが死ぬほど甘いんです。別に砂糖入れたわけじゃないのに」僕はラテのカップを持ち上げながら言った。
 
 「ハハ。急に真顔になるからなにかと思ったじゃないか。変えたげるよ」
 
 そう言うと加奈子さんは自分の飲んでいたコーヒーと僕のラテをすっと取り替えてくれた。
 「うん、確かに甘いね」
 僕は自分の口をつけたところが凄く気になった。

 気持ちが揺れて手が冷たくなった。心臓が激しく感情にシンクロした。冗談みたいな話、世界がきらきら光ってみえた。
 
秋という曖昧な季節は人恋しくなると江國香織が言っていた。それを感傷だと笑い飛ばすことは簡単だが、認めると人恋しくなる。冬とも春とも夏とも違う乾いたにおい。74度のコーヒー。緑色の葉っぱがオレンジ色に変わる感じ。女の子がマフラーを巻きなおす仕草。
風の音が聞こえない僕にとっても、秋という季節は十分に染みた。
 
  はがゆいほど、加奈子さんが恋しかった。

 「加奈子さんはどうなんです?最近調子のほうは。なんかありました?」加奈子さんが渡してくれたコーヒーのカップを両手で持ちながら聞いた。
 目線はカップにあった。

 
「調子?うん、そうだな。最近、結婚が決まりました」加奈子さんは熱(ねつ)っぽい声で言った。


 ビシビシ。心が割れた音が自分の外まで聞こえてないか不安なぐらいだった。エベレストの頂上から、深海へ。振幅がある程、ひとの心は深く潜る。
 
もう、呼吸をするのも面倒くさかった。
 
「へえ。良かったですね」失礼だとはわかっていたが、僕はカップを両手で持ったまま目線を上げることが出来なかった。
 「うん。ようやくね。彼のほうも仕事が落ち着いて、私も先生になれたし」
 
爆弾みたいに降ってきた。
言葉っていうのは、ときに一番ひとを傷つける。

特にそれが無意識の場合は。

僕はカップから手を離し、少しだけ目線の位置を上げた。
横で話をしていた女子高生二人組が興味深そうにこっちのテーブルをちらちら見ている。きっとカップルだと誤解しているんだろう。たまんない誤解だった。僕は右手をポケットに突っ込み、左手の親指で、左の眉毛を左から右にこすった。
「君のほうは?もう告白することはないの?」加奈子さんはそれが人間の当然の行為であるかのように、左手のくすり指にはめている指輪を右手でいじっている。

僕はポケットの中でショートホープの箱を開けたり閉じたりしていた。人生で一番煙草が吸いたかったが、ここは禁煙だった。禁煙にしたスターバックスが憎くなりそうだった。なにもかも憎くなりそうだった。

さっきから、左耳の奥で耳鳴りがした。

「随分前から、風の音が聞こえなくなった」
ハッキリ顔を上げたとき、無意識に口をついた。

「なにそれカッコ良いな。どこかの小説から引っぱってきたの?」加奈子さんは冗談だと思ったのか、見透かしたような笑顔を浮かべて言った。

「いや、違います。本当に、聞こえなくなった。これ、嘘でもなんでもないですよ。シリアスな話です」どうして僕はこんな話を打ち明けてるんだ?どうしたって救いの話だっていうのに。
 
 「ん、でも君の信じているものって・・・」
 「だから『でした』ってね」
 
「本当に?」加奈子さんは顔を真顔に戻して聞いてくる。
 「本当に。ある日突然ね。乳歯が抜けるみたいに」 

「それで君はどうしたの?」
加奈子さんはそれが人間の当然の行為であるかのように、薄い唇を手でさわっている。
 
 僕はもう一度確認するように心で唱える。
 
僕らは、駅の中にあるコーヒー屋で向かい合って座っている。顔と顔がとても近い。それが僕の胸を張り詰めさせる。
もうすぐ知らない誰かと結婚する理想の女性。

 「どうもしないですよ。ただ聞こえなくなったんだ。風の音だけが」
 
 「不便じゃない?」そう言うと、ラテを少し口に含んだ。僕が頼んだラテ。僕が口をつけたところが、まだ少しだけ気になった。

 「ただ寂しいだけです。特にバイクに乗ってるときにそれを感じる。だから、音楽を聴くことにしました」
 加奈子さんは絵を描くことについて尋ねているんだろう。ダンサーはもう踊れないのに、まだ踊れると強がるだろうか?
いや、わからない。僕はダンサーじゃない。

僕は・・・そう、僕は絵描きだ。


ガラスばりのスターバックスからは人で込み合った大通りがみえた。あんまりカッコ良くない男が綺麗な女性を連れているというカップルはいても、あんまり綺麗じゃない女性がカッコ良い彼をつれているというカップルはみつけられなかった。
 たったこれだけのことだが、これはひとつの真理だ。人が生きるということは、受け止めること。        

美しい女性もいれば、美しくない女性もいる。

 
「危なくない?」

「危ないですよ。でも他の人は風の音が聞こえてるんだ。フェアじゃない」
  目の前で僕に話しかけてくれる加奈子さんという凛とした女性は、間違いなく美人だ。
 
キーンという音とともに、左半身と耳の奥が疼いた。

「公平さの問題かな。君の乗ってるやつなんだっけ?あの深緑(ふかみどり)の」
 僕の言葉に言葉を重ねてくれること。それだけのことが、今はなんだか愛しかった。
「スーパーカブです」
 あと一時間もすれば永遠に会うことのない女性。

どんなに大切な誰かとサヨナラしても、自分の現状がどんなに悲惨でも、明日は隠せない気がした。
「どうしてそんな時代遅れのに乗るの?」

避けがたい別れを経験すること。それが大人になるということだと誰かが言っていた。

僕は大人になれるだろうか?

 「ニュートラルのミドリ色の光が好きなんです。それと、カブって40キロ超えると赤いランプが燈るんですよ。それがなにか悪いことしてるみたいで好きだ」僕はありったけの笑顔をみせた。同時に、奥歯を欠けるぐらい噛みしめた。
 
 もう一度加奈子さんをまっすぐ見た。

美しい女性が男の人生を左右するという透視は、人生をもう一つの角度で捉えることだ。それは、アダム・スミスの哲学書より道理にかなっている。
 
「それが理由?」
 
明日は、隠せない。

「まあそうです」

キーンという耳鳴りの間から一瞬だけ風のゴウゴウという音が聞こえたような気がした。
まさかと思い左手を左耳の後にかざしてみたが、それは気のせいだった。
 
それでも僕は、明日から戦おうと決めた。人生と。絵と。みえないなにかと。それが全くの見当違いに終わったとしても。戦おうと決めた。

「変なの」
 
そう言って加奈子さんは眉間に皺をよせ、顔をくしゃくしゃにしながら、風の話をごまかすように笑った。
それが人間の当然の行為であるかのように、右手で前髪を横にやりながら。

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