最愛
恋愛小説  著作者:前田華      オンライン小説SNSへ

[あらすじ]
主人公の美那子は、不慮の事故が原因で美那子の前から姿を消した浩輔。傷き、重荷を背負いながらも、自分を必要とする愛に答えていく。
浩輔がくれた勇気、友人沙紀の愛、そして新しい命の誕生。記憶をなくしたままの浩輔との再会にとまどいながらも再び愛を信じる美那子。
最愛
老舗旅館の娘に生まれたばかりに、美那子の人生は、幼い時から旅館の女将になるように、しつけられて来た。何代も続いている旅館だけに、そのしつけも代々受け継がれて厳しかった。
中学に入学するまで、そんな生活にも何の疑問も持たなかった。両親に言われるまま、習い事にもまじめ通い、素直に成長して来た美那子だった。
しかし、思春期を迎え、自我が芽生えはじめると、湧き上がる青春の情熱は妥協を許さなくなってきていた。
人の先頭に立つような性格ではないが、環境に慣らされる性格でもなかった。自分に対して忠実な性格の持ち主は、自分で物事を考えて行動する女性に成長した。
両親といさかいをするわけではないが、誤解されないように、自分の思いや考えはその時々に、両親にきちんと伝えてきた。飼いならされた人形のような人生だけは送りたくないと思っていた。
母がやっている『女将』の仕事が嫌いだとか、いやだとかいうことではない。自分も大人になれば母のようにうまくやっていけるだろう。たとえ将来どんな苦労があっても、女将は、何の苦労もなく美那子の手に入る職業だった。
それが美那子には不満だった。だから高校を選ぶときは、大学に進学することを考えて選んだ。今思えば着々と自分の意思を通すために、親を説き伏せる準備をしてきたといえる。
それに弟の成長が美那子に勇気を与えた。弟の翔一は、美那子よりはのんびりと育てられ、姉から見るとあまり頼りにはならないが、それでも宮部家の長男だった。彼がこの由緒ある旅館「山の家」の後を継いでくれるはずになっていた。
旅館のことは翔一にまかせて、美那子は、もう一つのレールに自分の力で乗って見たかったのである。
やっとの思いで、両親の許しも出て、美那子はめでたく東京の大学に入学した。一度納得すると、両親は美那子になんの条件もつけなかった。それだけに美那子は、自分で自分を律した生活をしていかなければと自分を戒めていた。

明日は美那子が東京へ行くという日の夕方、母の瑞江が美那子の部屋にやってきた。忙しいからこそ、自由な時間が出来ると、瑞江は時々美那子の部屋にやって来た。
小さい頃から、母親に対する感情とは別の、畏敬の念を抱いていたので、母親に対して隠し事をするようなことはなく、何でも話が出来た。
瑞江は母親より女将としての時間が長いせいか、美那子はあまり子供扱いされた事がない。今日はめずらしく、美那子の好きな和菓子と渋めのお茶を持って入ってきた。お盆の上で入れたてのお茶の香りがした。
「ここのお菓子も、しばらく食べられなくなるわね」
  母の手からお盆を受け取りながら、美那子は名残惜しそうにいった。
「それでも美那子は東京に行ってしまうのね。ママより父さんが辛いのよ。」
「わかっているわ、ママ。私も父さんの側を離れるのは不安なの。それに、父さんの気持ちもよくわかっているのに、自分でも随分親不孝だと思っているわ」
「あなたにとって、父さんは父さんであって、パパじゃないのよね。」
「パパも父さんもいっしょでしょ」
「そうじゃないわ。かあさんはいつも父さんがうらやましいわ」
「どうして」
「ママはいつまでもママだけど、あなたは中学を卒業した時から、パパのことを、父さんと呼ぶようになった」
「よく覚えているのね」
「初めのころはあなたが大人になって、パパと距離を持ちたいのかと思ったの。でもそうじゃなかったわ」
「どうしてわかるの」
「ママが愛した人だからわかるの」
「そう・・」
「パパを父親としてではなく、一人の男性として尊敬してるのよ。普通は毛嫌いする年頃なのに」
「でもママのこと、嫌ってなんかいないわよ」
「馬鹿ね。そんなことわかっているわよ」
「ママが反対したら、私あきらめたかもしれない」
「あら、うれしいこといってくれるのね」
その言葉に二人とも苦笑いをしてしまった。瑞江はちゃんとわかっていた。美那子の性格は夫の庸一によく似ている。お互いを愛しているからこそ、非情な事ができるのである。
  瑞江も何度か庸一のその性格に助けられ、この旅館のおかみの仕事をこなしてきた。愛は、優しさだけでは人をだめにしてしまうのである。
母と娘の会話は取りとめもなく続く。瑞江は名残惜しそうにいつもよりゆっくりお茶を飲んだ。今度はいつこんな時間が持てるのだろうとかと思いながら。
「美那子、東京は誘惑が大きな口を広げて待ってるわ。近寄る者をとらえて離さない街よ。誘惑に近寄っても、負けちゃだめよ。」
母はそういうと、美那子が湯のみを置くのを待って、美那子の部屋から出て行った。

その日、瑞江のように冷静になれない庸一は、遅くまで帰ってこなかった。庸一は、女性としてまぶしく輝いている自分の娘の成長を、手放しで喜ぶ事が出来なかった。喜ぶどころか、正直なところ、自分を振り切っていく娘の行動に寂しさを覚えていた。
それでも父親の役目として、明日から東京で生活する事になった娘を、駅まで送っていかなければならなかった。
「体に気をつけるんだよ。困ったときはママに電話しなさい」
「ありがとう、父さん。私のわがまま聞いてくれて」
美那子としては、父親にきちんとあいさつをして行きたかった。しかし、駅に向かう車の中で、つまらない挨拶を交わしただけで終わってしまった。
両親に信頼されているからこそ、信頼を裏切るようなことはするまいと、美那子は自分自身に言い聞かせて、故郷に別れを告げた。

入学や住まいの、準備のために上京した時
「もう少し学校に近い方がいいと思うけど」
と母は勧めた。しかし美那子は、
「ママ、定期代ぐらいは、自分でアルバイトするから、このぐらいがいいのよ」
と学校から一時間ほどの所に、部屋を借りた。そうした自分への足かせでもないと、慣れない土地で暮らしていく自信がなかったからである。
娘を東京の大学に通わせる程度のことは、庸一夫婦にとって、たいした事ではなかった。しかし美那子の意思を尊重し、美那子が自分で決めた事に関しては、いっさい口出しはしなかった。実際それは正しい判断だった。
母が言った様に、美那子がどんなにしっかりしていても、東京は十八の娘には誘惑だらけの街だった。慎重な美那子でも、ひとたび誘惑に取り込まれたら、それが安易であればあるほど、そこから抜け出すには大変なエネルギーがいるだろうと思った。

美那子が入学した大学は、都心から少し離れているせいか、結構緑が多く、静かな町並みが残っていた。特に図書館から眺める外の風景を、美那子は気に入っていた。
木々の緑は薄い障子紙のように日差しをさえぎり、木々の間にみえる遠くのビルはしっかりと風景に溶け込み、見ていても飽きなかった。窓を開け放って、思いっ切り新鮮な空気を吸ってみたくなる。
一年前、オリエンテーリングが終わっても、自分の居場所がなかなか見つからなかった美那子にとって、この図書館は格好の場所だった。
  構内では、新入生らしいグループを、何組か見かける事もあったが、美那子にはなかなか近寄りがたく、図書館の方が居心地よかった。講義が終わると、美那子はいつも図書館に寄った。
しかし、六月も半ばになると、さすがに図書館は、居場所のない美那子くつろぎの場ではなく、まじめな学生が勉強する場所だった。
美那子もただぼんやり過ごしているわけにはいかなくなり、周りに影響されるように、勉強したり、本を読んだりして過ごすようになった。
ほかの大学の図書館は知らないが、美那子はこの凛とした静寂が好きだった。

そして大学生活も二年目を迎えた。
美那子がいつものように、図書館で本を探している時だった。
「すみません」
突然美那子の後ろで声がしたので振り向くと、一人の男の学生が立っていた。見かけた事はあるが、誰だかまったく知らなかった。
「何でしょうか」
美那子は不機嫌そうに返事をした。
「その会計学の本を返すときは僕に声をかけてくれませんか」
その本は、先ほど美那子が棚から取り出したばかりの本である。
「声をかけてくれといわれても困ります。受付にリクエストしておいて下さい」
「大丈夫ですよ。僕はよく図書館を利用していますから」
「でも私は、いつもここにくるわけではありませんから」
「僕はいつもこちらの席だけど、あなたはいつも窓側の席でしょう。読み終わったら教えて下さい」
「わかりました。でも返しにきた時、あなたがいなかったら、知りませんよ」
「かまいません。でも必ず会えると思いますよ。よくあなたを見かけるから。」
ずうずうしい男だと思った。でも都会では、この程度の事は、あたり前なのかもしれない。
美那子はそれ以上の言葉は口にせず、会釈してその場を離れ、窓際の自分の席に戻った。本棚の方に目をやると、自分に声をかけた学生は、まだそこに立っていた。
他の本も探したかったが、今更あの場所に行く気にはなれなかったので、問題の会計学の本を開いて読み始めた。
美那子は漠然とではあるが、公認会計士になろうと思ってこの大学を受けた。一年が過ぎても、入学当初の思いにそれほどの落差はなかった。
専門教科はとくに興味がわいたので、手当たりしだいに、関連する本を読んでみた。理解できないところがあっても、苦にならず夢中になれた。
美那子は、先程の学生の事などすっかり忘れて、会計学の本を読みふけった。

「美那子。相変わらずね。」
声をかけてきたのは、入学して初めて親しくなれた、同じ学部の剣持沙紀子だった。
「帰りに駅前でお茶でも飲まない。ご馳走するから」
「ご馳走でなくていいわよ、たまには付き合うから」
「珍しいこと言うのね。じゃあ気が変わらないうちに行こうか」
「勉強しにきたんじゃないの」
「そのつもりだったけど止めたわ。勉強はいつでもできるけど、美那子がお茶に付き合うのは、めったにないことだから逃したら大変」
「いやね、沙紀ったら。いつも私が断っているみたいに聞こえるじゃない」
「私のお誘いに乗って頂いたのはいつの事でしたかね」
  沙紀子はそういいながら、机の上の美那子の持ち物を、勝手に片付け始めていた。

初めに声をかけてきたのは、もちろん沙紀子のほうからで、やっと大学での生活に慣れてきた頃だった。
その日は帰る頃になって、突然雨が降り出した。駅までは近いせいか、突然の雨でも、みんな仕方なく濡れながら建物を出ていった。用心深い美那子は、その日は傘を持っていた。濡れてかけ出すみんなに、申し訳なさそうに傘を開いて歩き出した。
「入れてもらえないかしら」
  と後ろから声がした。そして、降り返る間もなく、一人の女子学生が、美那子の傘の中に入ってきて、肩に手を置いた。
「ごめんなさいね。返事も聞かないで。でも今日は、みんなと同じように濡れるわけにはいかないの。時間もないし。人に会うのよ。お願い」
否も応もなく小さな傘に入り込み、傘の柄をつかんだ。そして自然に美那子の肩に手をまわしてきた。
「でもこんな傘じゃ濡れるわ、いいの?」
「大丈夫。顔が無事なら」
それでも美那子は、飛び込んできたその学生の方に心もち傘を傾けて歩いた。歩きながら沙紀子は、美那子が同じ学部の学生と知って声をかけたと自己紹介してきた。
美那子も声をかけたことはなかったが、顔だけは知っていた。剣持沙紀子といえば、この大学では美人で有名だった。
それ以来、多少強引なところはあるが、信頼できる姉のような存在の紗紀子と次第に親しくなっていった。まさか自分が、こんな有名人と付き合うような事になるとは、思ってもみなかった。

美那子はもともと、自分の領域に進入してくる者に対して臆病だった。必ずといっていいほど初対面の者には警戒心を持つ。
それは小学四年生の時、仲間はずれにあったからである。きっかけは他愛もないことだった。でもみんな自分が大事だから、自分を守る側につく。もちろん、誰にも声をかけてもらえない寂しさは、決して気持ちの良いものではない。
しかし、いざ独りに慣れてみると、わずらわしさから開放される自由があった。人を観察するのも面白かった。一緒にいると気づかない事に気づき、自分以外の人間関係がよく見えるようになった。
また自分を飾る必要もないから、それまで自分がどんな人間であったかも、よく見えてくるのである。どんな言葉や態度が人の感情を逆なでするのか、自分が置かれた問題から遠ざかり、他人の目でみているとよくわかった。
仲間に戻りたければ、仲間に擦り寄って行けばいい。それがいやなら、許しがたいことなら『仲間に入れてもらわなくていいから、私のことはかまわないで』ときっぱりした態度を貫けばいい。
貫く事がゆるされない世界なら、そこから逃げて二度と近づかないことである。
美那子はそうやって自分を守ってきた。人の感情を変えることと、相手を許せるようになるには、恐ろしく長い時間と犠牲を費やす。そのまま闘い続けたら自分が傷つき、自分を見失ってしまう事をその時に学んだ。
それ以来、美那子は、うかつに人に近づかないようにしてきた。そのせいか、誰が自分にとって危険な存在であるか、そうでないかの判断を誤る事はめったになかった。
沙紀を受け入れても、自分にとって危険のない人物である事を本能的に感じとった。
「宮部さんより美那子の方がいい響き。だから美那子って呼ぶね。私は沙紀って呼ばれたほうが好きだからそう呼んでね」
大学ではじめて知り合えた友人だった。

駅前のコーヒーショップは学生であふれていた。禁煙で、ざわめきさえがまんすれば便利な店だった。言わなくてもあうんの呼吸で席をつめてくれる。二人はカウンターの席に座った。
「美那子。いい男見つかった?」
沙紀子の話はいつも唐突にはじまる。
「いやね。そんな目的で大学に来たわけじゃないでしょう」
「それは誤解ね。私の目的は勉強と男は半々ぐらいかな。まあ、美那子がそうじゃないことは認めるけれど。でも出会いは大切にするものよ」
今日の沙紀はいつも以上に輝いている。もともと美人な上に化粧もうまい。常に自分を、よりきれいにみせるすべを身につけている。
「沙紀は黙っていても、めぐり逢いに不自由はしないでしょうけど、私は出会いなんてむりね。都会の男には、警戒心が先に立ってしまうわ。見る目も無いし」
「美那子はぜんぜん自分の魅力がわかってないのよ。あなたって不思議な魅力がいっぱいよ。余程自分に自信があるばかか、あなたのほんとうの魅力を知っている男でないと、あなたには近づかないわ」
「それはどういう意味に受け取ればいいの」
「きれいときれいに見せることは違うの。美那子はダイヤモンドの原石で、磨けば私など足元にも及ばないって事。そのことに気づく男は本物だって事。のがしちゃだめよ」
そんなたわいない話を一杯のコーヒーで済ますと、そろって駅に向かった。

もともと沙紀とは反対方向の電車に乗っているが、住まいなど詮索したことはない。美那子がアパート暮らしで、沙紀は家族と暮らしている程度のことしか知らない。
「じゃあね。」
そう言って改札で別れると、美那子は時計を見た。もう七時になろうとしていた。
沙紀は、お茶は飲んでも食事をしようといった事はめったになかった。きっと家族と一緒に食べる習慣になっているのだろう。美那子は生活費を節約して使っていたので、沙紀との付き合いに余計な心配をする事もなかった
ホームに上がると同時に上り電車が滑り込んできた。ホームに上がってまで、お互いに相手の姿を目で追うようなことはしなかった。それは、二人の間では初めから暗黙の了解のようなものであった。

「ただいま」
美那子はいつも無人の部屋にそう挨拶してドアをあけた。
美那子が借りている部屋は、六畳の洋間に三畳の台所が就いていた。台所のテーブルは食卓でもあり、勉強机でもあった。
入学したての頃は、何もかもが初めての経験で興奮していた。時間があっという間に過ぎ、落ち着かない生活が続いた。
  疲れがピークに達した五月の連休は、家に帰る元気もなくなり、アパートで一日を過ごした。そして、朝から家で過ごしてみて、自分の家事は手順が悪いことに気がついた。
今までは思いつきで丁寧にやりすぎるため、結局なにもかも中途半端でいつも雑然としていた。手早く短時間に、一つ一つけりをつけていかないと家事はたまっていくのである。美那子には貴重な発見だった。それ以来、美那子の部屋はいつもそれなりに片付いていた。
料理は母親にうるさくしこまれたおかげで、苦手ではなかった。節約もしなければならないので、遅くなった時でも必ず何か自分で作って食べた。
今日も帰るやいなや、エプロンをして台所に立った。スパゲティーをゆで、凍らせておいたミートソースを溶かし、簡単に夕食の準備をした。
テレビを見ながら、夕食を食べ終わる頃には、九時のニュースが始まろうとしていた。
美那子の生活は土・日はアルバイトで、平日は勉強中心の生活だった。親と同居しているわけではないので、洗濯、掃除、食事の準備は自分でしなければならないので結構忙しかった。
後片付けをしながらニュースを聞いている時だった。聞きなれた地名が耳に入ってきたので耳はそちらのほうに傾いていった。交差点での交通事故のニュースだった。
三台の車がぶつかったらしく、けが人が何人もいた。やっぱり車は怖い。これで又、免許を取らない理由付けができたと、美那子は思った。
片づけが終わると、美那子は今日図書館で借りてきた本を、バッグから取り出した。読みながら、今日声をかけてきた男のことを考えていた。美那子は初対面だと思った男が、自分を知っていたことに警戒心を抱いていた。
「さっさと読み終えて返しておかなくちゃ」
とつぶやきながら、頭からその姿を振り払い、本に熱中した。

土、日はアルバイトで忙しくて本を読む暇はなかった。そして美那子は問題の本を読み終わるまで図書館には行かなかった。
水曜日のいつもの時間に図書館に行くと、真っ先に、先日声を賭けてきた男を捜した。しかし、図書館を利用している学生はいつもより少ないのに、美那子が探しているあの学生は見つからなかった。
『会えなかったら知らない』と言ってあったので、探すのをやめていつもの席で読みかけの小説を読み始めた。時間が経つのも忘れて夢中で読んでいた。
『いけない』と思って時計を見ながら立ち上がろうとした時だった。
「やっぱり、ここにいてくれたんですね」
振り向くと、この前声をかけてきた学生が立っていた。
「あらよかったわ、お会いできて。この前の本、受付に返して帰ろうと思っていたところです。この本、誰かに持っていかれずに済んでよかったですね」
美那子は皮肉を込めて返した。必ず会えるような口ぶりとは裏腹だった行動に、少し腹を立てていた。
「それどころじゃないんですよ。剣持沙紀子さんは、あなたのお友達ですよね?」
「そうですけど。沙紀がどうかしましたか」
「交通事故に遭い、僕の知り合いがいる病院に、入院しているそうです。その人に、あなたを病院に連れてきてくれないかと頼まれて迎えにきました。」
  美那子は、突然のことでうろたえてしまった。
「えっ、交通事故って、沙紀は大丈夫なんでしょうか」
「命に別状はないそうですから、安心してください。タクシーを待たせてありますから僕と一緒に来てください。」
どうしてこの学生は、沙紀が事故に遭って入院した事を知っているのだろうと思った。しかし今はそれどころではなかった。
今週になって、沙紀の姿が見えないことは気になっていただけに不安がつのった。しかし、名前も知らない男に突然と、沙紀が事故で入院したと言われて、美那子はあわてていた。読みかけの小説をバッグにいれ、男の後についていったが、小走りの足がもつれそうだった。
「こんな時になんですが、まだお互いに名前も名乗っていませんでしたね。僕は経済学部四年の木村浩輔です。よろしく」
「私も経済学部です。二年の宮部美那子といいます。よろしくお願い致します。あのー、どうして沙紀の事をご存知なんですか?」
「学内で人気ナンバーワンの彼女のことですから、僕だって名前ぐらいは知っていますよ。あなたと一緒のところを時々見かけるから、親しい友人なんだろうと思っていました。詳しいことは後で車の中でお話しますから、とりあえず急ぎましょう」
二人は、図書館を出て構内を抜けると幹線道路に出た。バス停の先にタクシーが待っていた。車に乗り込むと木村が「上原記念病院まで」と運転手に行き先を告げた。
「沙紀はいつ事故に遭ったんでしょうか」
「先週の金曜日の夜だそうです」
木村に金曜日の夜と言われて、美那子ははっとした。沙紀と久しぶりに駅前でお茶を飲んだ日のことである。
そして偶然だろうか、その日に美那子は交通事故のニュースを聞いていた。しかしあの時聞いた事故現場は、沙紀の自宅とは反対方向だった。
沙紀と別れた状況からすれば考えられないことだと思って、その事は口にしなかった。
「骨折はあるけれど、時間が経てば治る怪我だそうですから、安心していいそうです。」
「木村さんは沙紀のことを、どなたからお聞きになったんですか」
「病院にいる僕の知り合いから聞きました。同じ大学だから知らないかと聞かれました。事故の事は新聞にも出たようですが、女子学生としか書いてないから、剣持さんだとは誰も気がつかないでしょう。」
「もう五日もたっているのに、何も知らないなんて、友達だなんていえないわ」
  美那子は申し訳なさそうに小さな声で言った。
とにかく、事故に遭ったのは不運だが、回復できる怪我ですんだということは幸いだった。見舞いに行ったら、拍子抜けするぐらい元気な沙紀に会えるかもしれないと思った。

車を運転しない美那子には、タクシーがどこを走っているのか、皆目見当もつかなかった。しかし木村が案内してくれる病院が、沙紀の自宅の方ではなく、反対方向に向かっていることだけはわかった。
そして美那子はニュースで聞いた事故がそうだったのかもしれないと思い始めていた。三十分ほど時間がたっただろうか。二人は病院の玄関に降り立った。
あまり病気に縁のない美那子には、気後れしそうな構えの病院だった。木村の後をついて病院の中に入っていくと、時間が時間だけに待合室はがらんとしていた。
コーナーのソファーの前まで来た時、木村が振り向いた。
「ここで待っていてくれませんか。病室に行く前に会ってもらいたい人がいるから、今連れて来ます」
そういうと木村は一人でどこかに行ってしまった。そして事情をよく理解できない美那子はその場に取り残されてしまった。病院に居ると言う木村の知り合いとは、いったい誰なのだろうか。
  沙紀の怪我がたいしたことがないと言うのは、本当だろうか。沙紀はどうしているのだろう。人気のない場所に一人でいることで、次から次に不安がよぎっていく。
  家族で手術が終わるのを待っているテレビドラマの場面が浮かんで来た。まさにこんな思いでいるのだろうと思った。
「宮部さん」
木村が自分を呼ぶその声で顔を上げた。木村が連れてきたのは四十代後半の看護婦だった。
「剣持さんの担当というか、実は僕の母なのですが。」
木村の母だと言う看護婦は、木村の話しに割り込んできて
「浩輔、今日はありがとう。あなたの役目は終わったから、もう帰っていいわよ。かあさんには職業倫理というものがあるから、あなたのいるところではめったな話はできないの」
そういうと、美那子に向き合い
「木村香夏子です。突然どこの誰だかわからない男に連れてこられて、困ったでしょう。ごめんなさいね。あなたが剣持沙紀子さんの知り合いだと息子に聞いたものだから、あなたに助けていただきたくて来てもらったんです。さあこちらへどうぞ」
木村香夏子は美那子を促した。
「母さんには参るなあ。とにかく僕はここで待っていますから、お見舞いがすんだら声をかけてください」

美那子はいわれるまま、木村の母についていった。そして、相談室という案内板がかかった小さな部屋に案内された。
木村の母はコーヒーカップを二つテーブルの上に置くと、自分も美那子の前に腰を下ろした。
「インスタントで悪いけど飲みながら話しましょう。」
「あの、沙紀は大丈夫なのでしょうか」
「体の傷は二月もすれば、何事もなかったようにきれいになるわ。でも心に受けた傷は、時間がかかるし、自分でこじらせていく人もいるの。以前の彼女を知っている人が、今彼女に会ったら、きっと自分の目を疑ってしまうでしょうね。息子から聞いている、大学での彼女と様子と、今病室にいる人とは、まるで別人のようだわ。」
「沙紀に何があったのでしょう。事故で怪我をしただけじゃないんですか?」
「何があったのかわからないけど、剣持さんは生きようとしないの。食べられないわけじゃないのに、何も食べようとしないし、話もしないのよ。わかっているのは、一緒に車に乗っていた男性が死んだことだけ。立派な身なりのお父さんが、一度来たきりで、誰もお見舞いに来ない。このままじゃ、彼女はだめになってしまうわ」
「ごめんなさい。見かけないと、気にはしていたんですけど、五日間も連絡を取り合わなかったから、大変な事になっていたんですね」
ただの交通事故ではない事が、しだいに美那子にもわかってきた。
「元気づけられる自信もないし、かけてあげる言葉も見当たらないけど、沙紀に会わせていただけませんか?」
木村の母は迷っていた。
会わせて余計悪い結果になっても困るが、このままでは沙紀子は立ち直れないだろう。たとえ誰かに批判されるような行動があったとしても、以前の自分を取り戻す事が許されないことはない。
看護婦としてだけではなく、同じ年頃の子の親として、香夏子は、沙紀子にもう一度立ち直ってほしいと思っていた。
「呼び出して申し訳ないけど、少し待っていてくれる?今無理に会わせて彼女を刺激したくないの。あなたが来ている事を彼女に話してみて、本人が会いたいといったら会っていただくわ」
そういうと香夏子は部屋から出て行った。

美那子は混乱している自分に、冷静さを取り戻すように言い聞かせた。そして、金曜日に自分と別れた後の、沙紀の行動について考えてみた。
駅で別れた後、沙紀は自分と同じか、その次の下りの電車に乗り、待ち合わせの駅で降りた。そこで亡くなった男性の車に乗ったのだろう。
沙紀が普通でないのは、きっと亡くなった男性を愛していたのだろう。沙紀はその事を自分には内緒にしていた。なぜ美那子に隠れるようにして会っていたのか、考えてみたところで、またその理由がわかったとしても、今となっては仕方がなかった。今はただ沙紀が自分を必要としてくれることを願うしかなかった。
「お待ちどうさま」
ドアノブを持ったまま木村の母が声をかけた。
「あなたが来ていることを伝えたら、彼女だまって泣いていたわ。『会える?』って聞いたら返事はなかったけど、否定はしなかったから大丈夫だと思うの。会って下さる。」
「ええ」
美那子は小さな声で返事をして立ち上がった。
「部屋は個室で、気兼ねなく話せるから安心して。彼女の力になってあげてね」
案内された病室は、人の往来から隔離された静かな場所にあった。
病室が近づくにつれて、美那子はだんだん不安になってきた。事故に遭ったという事しか知らない自分が、沙紀の現実を受け止めてやれるのだろうか。
しかし今は、たとえ一緒に泣くぐらいの事しかできなくても、沙紀に会いたいと思った。
病室の近くまで来た時、香夏子は
「二つ目の5号室ですから、後は貴方にお願いします。話の内容は聞かないけど、彼女に気持ちの変化があったら教えて下さい。この階のナースセンターにいますから、帰りに寄ってくださいね」
寄らずにはいられない強い口調でそれだけ言うと、香夏子は美那子に背を向け引き返していった。

美那子は病室の前まで来た時、一つ深呼吸をして扉をたたいた。そして沙紀の返事を待たずに「美那子です」と扉を引いて中に入っていった。
病室に静けさはつきものだが、ここは空気までも動かずにじっとしているようだった。十畳程の広さだろうか、必要な家具が、機能的に配置されていて、とても病室とは思えない部屋になっていた。
沙紀はどこだろうと目をやると、窓辺で車椅子に座わり、じっと外を見ていた。頭には大きく包帯が巻かれていた。
「お見舞い遅くなってごめんね。大変だったのね。」
沙紀はそれでもだまって外をみている。美那子は思い切って沙紀に近づいていった。三角巾でつられた左手の包帯が痛々しい。
「沙紀、怪我は大丈夫なの」
美那子は後ろからそっと沙紀の肩に手を置いた。沙紀がゆっくり振り返り、美那子を見上げるように見つめた。沙紀の目には、美那子が初めて見る涙が溢れていた。
「あの人が死んだの。でももう会えなくなっちゃった。許されない事だとはわかっていたけど、愛していたの」
美那子はどうしていいかわからなかったが、こんなになった沙紀を受け止めるのは今、自分しかいないことだけは理解できた。
美那子は沙紀の前にしゃがみこんで、沙紀のひざの上に置かれた右手を自分のほほにあてた。美那子の目にも涙が溢れ、沙紀の指先を濡らしていく。
「ごめんね、沙紀、何も力になってあげられなくて。でも今、あなたの手がこんなに暖かくてほっとしたわ。」
不安そうなに自分を見上げている美那子の顔は悲しそうだった。事故が起きてからどのくらいのときが過ぎたのだろう。自分の事をこんなに心配してくれる人がいる。そのやさしさに沙紀は涙が止まらなかった。

満ち足りた気持ちに、突然と襲いかかって来た出来事に、対処する間もなかった。眠れぬまま迎えた事故の翌日の朝、父親が弁護士を伴ってやってきた。
「大丈夫か」の一言もない見舞いだった。
「いったい何をやっていたんだ。怪我はたいしたことないそうだ。これから私の知り合いの病院に移ってもらう。いいな」
沙紀は父の厳しい口調に何もいわなかった。大学生の娘が妻子持ちの男の車に乗っていて交通事故に遭った。弁護士がいなかったら、平手打ちの一つが飛んできても、不思議ではない性格の父親だった。
自分の意思とは無関係に、父親に従わざるを得ない。運転していた平井の怪我が気になっていたが、聞けるような状況ではなかった。
たいした怪我ではないといっても、骨折や裂傷があり移送用のベッドに移される時、痛みで気を失いそうになった。沙紀は歯を食いしばって、その痛みに耐えていた。
民間の救急車で運ばれた病院は、どこにある病院かもわからなかった。ただ父親の存在が影響していることだけは病室や、医者や看護婦の扱いからも判断できた。
「大学には病気だということにしておく。ここで少し頭を冷やして自分がやったことを反省するんだな。細かいことは担当の看護婦にたのんでおく。相手のことは弁護士の桂木君が処理してくれる回復しても勝手な行動は絶対に許さない。」
それだけ言うと主治医に会うため、弁護士を残したまま病室を出て行った。父親が病室を出て行くと、沙紀は一番知りたかったことを弁護士に聞いた。
「桂木さん、平井さんの具合はどうなっているの。気を失っていたから何にもわからなかったの」
「まだご存知なかったんですか」
「えっ」
「連絡をうけて私が到着した時、あなたも平井さんも手術中でした。社長から、娘は大丈夫だが、相手は危険な状態だと言われました。そしてあなたの手術が終わってまもなくでした。彼が手術中に亡くなったことを看護婦から聞きました。」
「今何ていったの」
「お嬢さん、お気の毒ですが、平井さんはお亡くなりになったんですよ」
桂木は平井が死んだといっている。そんな事があるのだろうか。体中の熱がいっぺんに引いていった。
平井の家族への対応について、弁護士は沙紀に説明していったが、沙紀は何も聞いていなかった。そしていつの間にか弁護士もいなくなっていた。
事故に遭った時、よくない予感はあったが、こんな結果など予測もしなかった。目の前にある、大きな先の見えない壁が、沙紀の気力も体力も狂わせていた。

著作者:前田華      ホームへ
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