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[あらすじ]
時は江戸時代初期。
怪現象を起こすと言われている青磁の瓶を監視するという任務に就くことになった若侍。
深夜に彼を襲った出来事とは・・・・・・ |
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青磁瓶奇譚
高さ一尺足らずのその陶器は、広い口から下方へと下がるにつれ、飴や油を垂らすかのように次第に細くなり、全体の半ばほどから流麗な曲線を描きつつ膨れ上がっていた。ちょうど徳利の上半分と瓢箪の下半分を繋ぎ合わせたような形とも言える。
しかし、最大の特徴は、文様も装飾も無い器の表面を彩る、艶やかな青緑だ。それはちょうど、雨上がりの青空の色にも、水無月の川の色にも似ていた。
もしこの器にそぐわないような文様があったならば、ここまで見事な色艶は出なかったかもしれないと、六文字宕郎は思った。
「青磁の瓶だ。恐らく、明から持ち込まれたものであろう。とくと拝見せよ」
六文字助五郎は、上座に据えた陶器を前に畏まっている義弟に、恭しく告げた。
「はっ」
返事をした宕郎の体格は、歳十五にしてはやや大柄である。その体躯から伸びた四肢はいずれも引き締まっているのだが、唯一の例外が、顔だ。精悍さは見受けられるのだが、どこか茫洋として、利発さに欠ける。垢抜けていないと評する人もいる。
宕郎は膝立ちになり、そっと前へ進み出て青磁へと太い指先を伸ばした。
刹那―――
「たわけっ!」
雷鳴のような助五郎の一喝に竦んだ宕郎は、恐縮してすぐさま畳に額づき、平伏の意を示す。剣の腕よりも、むしろその一喝の迫力を買われて六文字家に婿入りした助五郎の面目躍如、といったところか。
「あ、いや」
憤怒の形相から一転して、いつもの鉄面皮に戻った助五郎は、軽く咳払いをしてから話を続ける。
「お前が許可も得ずに触れようとした事は、無礼といえば確かに無礼だが、わしが止めたのはそこが原因だからではない。その瓶にむやみに触れると何が起こるかわからないから手を出すなと言いたかったのだ」
「瓶・・・・・・ですか?失礼ながら、壺ではございませぬか?」
「こういう形状のものは、すべからず瓶と呼ばれておる。壺は通常、もっとずん胴で、蓋のあるものが多い」
「勉強になりました」
宕郎が再び平伏する。
「この瓶を拝謁させたのは、それなりの理由があるからだ。実はお前に、この瓶の不寝番をやってもらいたい」
「不寝番?」
「そうだ」
「この瓶が賊に盗まれないように、でございますか?」
「そうではない。この瓶が怪しからんことを起こすかどうか、それをお前に確かめてもらいたいのだ」
宕郎は義兄の顔をまじまじと見つめた。平時から忠孝を信条とし、宕郎に対しては行儀作法に関して特に口うるさい男ではあるが、少なくとも嘘をついたり嫌がらせをするような人間ではない。
「そんなにおかしいか?」
真顔のまま、助五郎が訊く。
「いえ、そんな」
「ならば、その口を閉じよ。阿呆に見えるわ」
助五郎に言われて、宕郎は初めて自分がポカンとだらしなく口を開けている事に気づいた。
「まあ、お前が驚くのも無理はない。しかし、怪異の有無を確かめるのは、隠岐守様の御命令でもあるのだ」
「隠岐守様の」
武家の世事に疎い宕郎も、田村隠岐守宗良の名前は知っていた。温良で慎重な性格なので領民から慕われているが、いかんせん二十歳の若輩者である。まだまだ幼い若君の後見人という立場が重圧になっているという噂まで流れている。
「この瓶は、堺の商人から隠岐守様に献上されたものなのだが、その商人の話では、様々な怪異を起こす、非常に珍しいものなのだそうだ」
「と、おっしゃいますと?」
「深夜になると、瓶の口・・・ここから白い腕が伸びてきて、近くにあるものをつかもうとするのだそうだ」
扇子で瓶の口を指しながら、助五郎は言葉を続ける。
「また、時にはこの口から、汲んでもいない水が溢れ出てくる、とも言っていたそうだ。このふたつだけなら、まあいい。しかしこの口から」
「また、口ですか」
「女の唄声が聞こえてくるのだそうだ」
これには宕郎もぎょっとして、瓶の口を見た。さすがにそこから中身を覗き込む気にはなれない。
「その女の唄を聴いてみたいと、亀千代様がおっしゃられている」
「えっ」
田村隠岐守が後見人の一人として擁立している亀千代は、数え年でまだ八つである。怖いものみたさとしては度胸がある方だと言えなくもない。
「ですが、それならばご要望にお答えしても差し支えないのではございませぬか?怪異といったところで、その三つだけであるならば、特に害は無さそうですし」
「そうはいかん。この瓶は、伸ばした腕で人を殺す」
「まさか」
「商人の話では、瓶の中から何かを望む声が聞こえた時が、もっとも危ういのだという。うっかり声の正体を確かめようと瓶に近づこうものなら、たちまち身体を引き千切られてしまうのだそうだ」
「たかが瓶です。壺の親類ではございませんか。そのような力があるとは、とても・・・・・・」
信じられない、と言おうとした宕郎の声を、助五郎が遮った。
「梨木惣右衛門を存じておるか?」
「はい。先日、酒量が過ぎての失態でお腹を召した、あの梨木様でございますよね?剣の腕は相当なものだと伺っておりましたが」
「切腹したのではない。この瓶に殺されたのだ」
「えっ!」
「あいつがこの瓶の監視に当たってから二日目の、深夜のことだ。細君が実家に戻っていた惣右衛門宅から凄まじい悲鳴が聞こえてな。何事かと思って屋敷内に踏み込んだ者共が見たものは、右腕を引き千切られ、寝巻きを鮮血で染め上げた、惣右衛門の首無し死体だったそうだ」
「首?あの、首が無ければ、その死体が惣右衛門殿御本人とは・・・・・・」
「首は乗っかっていたのだ、ここに」
そう言いながら助五郎が扇子で指したのは、青磁の瓶の口だった。
「わしと数名の友人しか知らぬことだが、あいつは一滴の酒も飲めぬ男だった。ともかく体面上は酒の上での不始末が原因で切腹ということにしたのだ。まさか瓶に殺された、などと報告できるはずもあるまい」
「それで、次は私の番ですか」
答えた宕郎の表情は、未だ半信半疑のままである。
「失礼ですが、兄上は?」
「わしに万一があっては綾が悲しむだろうし、道場の跡継ぎもいなくなるではないか」
宕郎は心の中で嘆息した。「義姉」と「道場」を出されては断れないという自分の立場を、義兄の助五郎は誰よりも把握している。
「それに、お前の二刀小太刀なら危機にも対処できよう」
宕郎は左右に佩いた小太刀の鞘に手を当てた。腕が立つということは、同時に厄介ごとに巻き込まれやすくなるものだ、という師の訓戒が脳裏を掠める。
「今夜から三日三晩、夜を徹してこの瓶の監視に当たってもらう。異存は無いな?」
「それが、明日は、その・・・・・・」
「どうした?」
「実家の田んぼの雑草取りを手伝う、という約束があるので・・・・・・」
六文字家の離れに、もう一発雷鳴が轟いた。
宕郎が不寝番を言いつけられてから、二日が経った。
六文字家の屋敷から見て北東に位置する離れで、連日青磁の瓶と睨み合っていた宕郎にも、さすがに気の緩みが生じ始めていた。
(そもそも、なぜ俺がこんな事をしなければならんのだろう)
畳の上にあぐらをかき、柱に背もたれた宕郎には話し相手もおらず、瓶に話しかけたところで答えるはずもない以上、己が吐露した疑問には、自分で答えるしかない。
そして、自分が六文字家の養子、六文字宕郎という男だからである、と彼は結論づけた。
(好きで養子になった訳ではない)
六文字家における宕郎の立場は、婿入りした助五郎とは明らかに異なるものだった。
宕郎の実の父は足軽の生まれであり、庄屋でもあった。上に三人の兄がいる宕郎―――当時は喜助という名だった―――は、親の仕事を手伝うべき年齢に達する以前から、二本の木剣を帯に差して野山を駆け回っていた。元々は蛇や狼に襲われた時に備えて、また一本しか持っていないと折れたときに困るという理由で父親に作ってもらった木剣を振り回すのは、喜助にとって何よりの楽しみだった。
また四人兄弟の末っ子だった喜助は、よく三人の兄にからかわれ、時には苛められた。歳が近く、兄たちよりも身体が大きかった喜助は、三対一の状況でも二振りの木剣を使っては縦横無尽に走り回り、兄たちをやっつけていた。もっとも、その後は必ずと言っていいほど四人は父にお灸を据えられていたのだが。
十二の時、喜助は木剣で猪を仕留めたが、兄たちは誰一人としてその偉業を信じてくれなかった。特に三番目の兄が、「猪を倒せるのだから、そこの道場の師範だって倒せるはずだよな?」とからかったので、癇癪を起こした喜助はその足で道場破りを敢行した。
猿のようにすばしっこく、しかも猪を打ち殺した喜助の膂力を知るはずもない道場生たちは、小さな道場破りの姿を笑い飛ばしたが、結局のところ誰もその身体に一党も浴びせることが出来ずに、ことごとく打ち取られてしまった。
困ったのは、婿入りして間もない師範代の六文字助五郎と、喜助の父親である。
たかが十二の、それも足軽の小僧に勝つことも出来ない道場という風評を流したくない助五郎は、師の六文字一斉に相談し、喜助を六文字家の養子として引き取ることにした。この申し出を、無礼極まりない大事件を起こしてしまったと恐れ慄く喜助の父親も即座に受け入れ、喜助は「十二にして門下生の中でも特に腕の立つ、六文字家の子息」として、養子に出されたのである。
その際、喜助では武士らしくないという理由で名を変えることになった。実家に三人、六文字家では助五郎という兄がいるので「五郎」にするべきだと言い出したのは義姉の綾だったが、助五郎が「自分の名に似ている」という理由で却下した。そこで「愛宕山」から一字拝借して「宕郎」という名にした訳である。
もちろん喜助―――宕郎の異存など、誰も聞こうとはしなかったが、彼としても大きな不満はなかった。これからは堂々と道場で剣を振り回せるし、養父となった一斉と義姉の綾も優しい。ただ武家としての行儀礼儀やしきたりがわずらわしいだけである。
宕郎は左右に差した小太刀の柄を、手のひらで叩いた。百姓のせがれに過ぎなかった頃とは違い、帯刀を許される身となった今でも、その腰にあるのは太刀ではなく小太刀だった。
長さにしてそれぞれ二尺あるかなしかの二振りの小太刀は、六文字一斉が自分の為に特別に作らせたものである。
(それにしても、隠岐守様のお考えが、俺にはさっぱりわからん)
快く思っていない人間からは「腰抜け」「軟弱者」と陰口を叩かれている隠岐守である。今さら幼君亀千代のご機嫌取りなどしたところで、権力争いで優位な立場につけるわけでもあるまい。
いや、そもそも武家社会というものが、宕郎にとって未だに理解できない。
亀千代の父親は、江戸に出た際に豪奢な振る舞いを老中に咎められ、家老勢の申し立てにより蟄居させられた。
変な話だというのが、この御家事情を初めて聞かされた宕郎の率直な感想であり、それは今でも変わらないのだが、綾を含めた六文字家の人間には、どうやら納得できる話らしい。ただ一斉だけは、言葉や態度の端々に無念さを滲み出している。
(変な話といえば、この瓶だ)
百姓として土と戯れていては見ることすらままならなかっただろう青磁の瓶を眺めながら、宕郎は首を傾げた。高さにしてわずか一尺足らずの瓶。その口は三寸にも満たない。助五郎はここから白い腕が伸びてくると言っていたが、腕は胴につながっているものである。だとすれば、その胴体もこの瓶の底に沈んでいるのだろうか。また、唄うには口が必要となる。口は顔、すなわち頭についているものだから、やはり頭もこの小さな陶器の底に存在するのだろうか。
何よりも不思議なのは、梨木惣右衛門がこの瓶に殺されたという話だ。
道場を開くという話まであった梨木惣右衛門の剣術の腕は、宕郎が侍に成りたての頃に一度だけ見る機会があった。裂帛の気合と共に目の前の巻き藁を四分五裂するその迫力に圧倒された宕郎は、二刀小太刀の腕に磨きをかけねばならないと決心したのだ。
その惣右衛門が、この瓶に殺された。
悪い冗談だ、きっと賊が押し入って惣右衛門の不意を突いたに決まっていると自らに言い聞かせつつも、胸中をよぎる一抹の不安は拭いきれない。
自分の二刀小太刀が通用するだろうか、と思案していると、意識が過去に遡る。そこからさらに隠岐守の思惑、惣右衛門の不慮と堂々巡りを続けているうちに、次第に意識が遠のく。
どれほどの時が経ったのだろう。ふと目を覚ました宕郎の右側から、異様な臭気がただよってきた。
自らの両頬を張って意識を取り戻した宕郎が見たものは、右側から三日月のような軌跡を描いて自分の右腕に近づいてくる、白い腕だった。
名状しがたい腐臭を放つ白い腕の先についた五本の指が、片膝をつく宕郎の右腕を外側からつかんだ途端、袖を通り抜けた指の腹が、蛭のように腕の肉に噛みついた。
「ぐっ!」
痛みと恐怖にたじろぎながらも左に差した小太刀を抜こうとする宕郎だったが、その白さからは想像できないほどの力で押さえつけられた右腕は完全に動きを封じられ、柄に手をかけることすらままならない。
白腕の出所はやはり瓶の口だった。まるで蛇やムカデのような動きで宙を泳ぐ腕は禍々しく、しかしなぜか宵闇に浮かぶ白百合のような美しさを漂わせている。
その美しさに魂を奪われそうな感覚に陥った宕郎は、腕の肉を千切らんばかりに引っ張られる痛みによって正気を取り戻し、左手で右に差してあった小太刀を引き抜き、白腕めがけて下から斬りつけた。
人間ならば尺骨にあたる部位に傷を負った白腕は宕郎の右腕から離れ、傷口から血を滴らせながら瓶の口へと、手繰られる釣り糸のような動きで引き下がった。
「これが梨木殿を殺した手口か!」
自由になった右手でもう一振りの小太刀を構えた宕郎は、立ち上がりつつ叫んだ。
刀を抜くのは大概、右手である。その右手を外側から押さえつけて固定すれば、どんな剣の達人といえども容易には白刃を外気に晒せなくなる。しかも白腕は餅のように長く、蛇のようにしなやかに曲がるので、体捌きだけで逃れようとしても、一旦捕まろうものなら、文字通りその手から逃れるのは困難である。何よりも、瓶の口からこんなものが出てくるとは想像もしないだろうから、この怪現象を目の当たりにすれば、どうしても反応が遅れる。
負傷した白腕と入れ替わるように瓶の口から二本目の白腕が伸びてきた。その手のひらを凝視した宕郎は、思わずその場に立ち竦んだ。
白い手のひらの中心についていたのは、一対の人間の目だった。
その目で宕郎を睨みつけながら、本体である青磁瓶の前でゆらゆらと蠢く白腕。その様は、さながら雨上がりの空を流れる白雲のようでもある。
今度は自分の喉笛を狙っていると気づいた宕郎は、伸びてきた腕に、左手の小太刀で真っ向から斬りつけた。
その一斬を縄のようにくねってかわした白腕が、宕郎の喉笛に触れたところで、今度は下から上へと突き上げた右の小太刀の切っ先が、白い手首を貫いた。
風穴を開けられてはさすがに宕郎の首を引き千切るだけの力は残されていなかったらしく、喉笛から手を離した白腕は、またしても青磁瓶の口へと退散する。
畳に滴り落ちたはずの血は、無色透明の液体に変わっていた。
月光の下、じりじりと後ずさりながら、宕郎は青磁瓶の攻撃に備えた。
小太刀はその名が示す通り、短い太刀である。脇差ほどではないにしろ、切っ先が届く範囲は太刀よりも狭く短い。常に前後左右に動き回り、自分が不利にならない間合いを作りつつ、相手の隙を突いて懐に飛び込み、一撃で仕留める。故に、身軽さと軽快な足捌きが求められる。
二刀流ならばさらに重視される。正面からの斬り合いで守勢に回っていたのでは、両腕の力で振り下ろされる太刀を、片手で受け流したり捌いたりしなければ成らなくなるからだ。双方の腕力に大人と子供ほどの差がなければ、二刀小太刀の方が不利になる。
誰かに教えられたわけでもなく、宕郎はその極意を自然に体得していた。もっともその原因は、三人の兄たちと喧嘩になった場合、常に逃げ回りながら反撃しなければ、三人なのうちの誰かにすぐ捕まってしまうからだった。
宕郎が後ずさったのは、広い庭に出れば動きを制限されなくなるからだ。行動範囲が広ければ広いほど、迫り来る白腕をかわしながら、隙を突いて青磁瓶に近づくことも出来る。
それでも、近づいたからといって何かできるというものでもない。田村隠岐守からの預かりものである以上、たとえ物の怪だろうと傷一つつけるわけにはいかない。
瓶の口から何の前触れもなく出てきた「もの」を見て、宕郎は侍らしからぬ悲鳴を上げた。
それは、女の生首だった。
ざんばらに振り乱れた黒い髪、腕と変わらぬ白い肌、吊り上った細い眼の中にある瞳は焦点が定まらないまま、それでも女の首は宕郎を睨みつけ、赤黒い唇を動かして早口にまくし立てたが、その言葉の意味が宕郎には理解できない。地方の訛りというだけでは納得できない、根本的な違いがあった。しかし、何かを訴えようと感情を爆発させる女の首には、異形の物のみが生み出せる、えもいわれぬ奇妙な美しさがあった。
やがて、言いたいことをすべて言い尽くしたのか、急に喚くのを止めた首は、宕郎に対して不敵な笑みを浮かべた。
次の瞬間に起こった出来事は、恐らくこの若侍の記憶から、一生消え去ることは無いだろう。
「ひっ!」
大口を開け、自分めがけて飛んできた女の生首を、身を翻した宕郎は危ういところでかわした。
目論見が外れた女の生首は、その勢いのまま庭の土塀に衝突し、地面に落ちた熟れ柿のように無残に潰れ、腐汁を撒き散らしながらへばりついた。
「それ」がもはや動き出すことは無いだろうと確信を持った宕郎は、小太刀を左右に構えながら青磁瓶に近づき、慎重に口の中を覗き込もうとして、すぐのけぞった。
瓶の口から吐き出された液体が宕郎の眼前を掠め、天井に穴を開けた。
「何事だ」
離れにやって来た助五郎を背に庇いながら、宕郎は青磁瓶に向かって小太刀を構える。こんな物の怪を見張らせておいて「何事だ」もないものだ、と胸中でつぶやきながら。
「義兄上、出ました。こいつ、やっぱり物の怪です」
「なんと、本物か」
「はい。まず、右腕をつかまれました。梨木殿の右腕を奪ったのと同じ手口でございましょう。それ、庭の土塀に証拠がございます」
「何も無いぞ」
「そんな」
振り返り土塀を見た宕郎は、我が目を疑った。そこに叩きつけられていたはずの女の生首は跡形も無く消え失せ、僅かに水の跡が残っているだけである。
「・・・・・・いえ、まだ証拠が無くなったわけではございません。しばしお待ちを」
左の小太刀を前に突きつけ、警戒しながら青磁瓶に近づいた宕郎は、その後に続く助五郎の懐から、例の扇子を抜き取った。
「それを、どうするつもりだ」
「証拠になります」
広げた扇子を、蓋をするように瓶の口に乗せる宕郎。
間を置かずに、瓶の口から吐き出された水により、扇子と天井に穴が開いた。
「これは奇怪な!」
「ご覧の通りにございます。これ以外にも、それがしに危害を加えようとすること四度。それがしはたまたま運よく切り抜けることが出来ましたが、このような妖怪を城中に持ち込もうものならば、刃傷沙汰が起きるのは避けられないものと・・・・・・」
「うむ、確かにお前の言う通りだ」
いつになく饒舌な義弟の言葉に、助五郎は頷いた。
「しかし、これを隠岐守様にお返しするのも不安ではあるな。これ以上、惣右衛門のような犠牲者を出すわけにもいかん」
「・・・・・・あの」
そっと離れにやって来たのは、助五郎の妻にして六文字一斉の実娘、綾だった。
「おお、綾。義父上のご容態は?」
「はい。御健勝ではございますが、今まで一度も聞いたことがない宕郎の悲鳴が気がかりだとおっしゃっておりました」
今さらながら、みっともない声を上げたものだと宕郎は気恥ずかしくなった。
「あの、田村様からのご使者が参りました」
「ご使者?」
「はい。お預けした青磁瓶にかかわりがある方をお連れした、と・・・・・・」
宕郎と助五郎は、顔を見合わせた。
「例の件は、取り止めになった」
数日後。
田村邸に青磁瓶を返しに行った助五郎は、自宅に帰るなり宕郎を座敷に呼びつけた。
「いかに若君のご要望であろうと、さすがに人殺しの物の怪を献上する訳にはいかん。殿中で御家老に刃を向けるようなものだ」
「ご賢明かと」
平伏する宕郎の右腕には、墨のように黒い包帯が巻かれていた。白腕に触られた解きに、いつの間にかできた傷を塞いでいるのだが、嫌がる宕郎が無理やり黒く染め上げてしまったのだ。
あの晩から、白いものは白米すらも好まず、専ら玄米ばかりを食べるようになった。白米は、土塀に叩きつけられて潰れ、奇怪にも消えてしまった女の生首を思い出し、食欲が失せてしまうのだという。
「傷は癒えぬか」
「小太刀は使えます」
「息むな。傷口が開けば、お前はともかく道円殿がまた苦労する」
道円とは、宕郎の傷の手当をした医師の河野道円のことである。少量ずつとはいえ傷口から流れ出る血は、あらゆる止血の手段を用いても塞がらず、道円を悩ませていたが、ある時を境にぴたりと止まった。
「それで義兄上、あの瓶の処分は」
「うむ。やはりあの男の言う通り、明に送り返す事に決まった」
「左様で」
助五郎の言う「あの男」とは、田村隠岐守の使者にくっついてきた外国人のことである。明からやって来たという男は、流暢な日本語で自らを「江」と名乗り、青磁瓶は手違いにより明から持ち出された物だと告げた。元々は青磁ではなく白磁の陶器を送るつもりだったのである。
そこまでの事情説明は六文字邸で行われたので、宕郎も知っていた。ただ、それ以降の出来事は極秘裏に進められていたので、どういう形で決着がつけられたのかについては、何も知らなかった。
「江殿は、あの瓶が起こす怪異についても御存知だったのでしょうか」
「そうなる可能性もあるということには気づいていた、とは言っていた」
「と、申しますと?」
「人間は、様々な感情を表裏に合わせ持っている。怒りや悲しみも含まれているが、その感情を特に強く抱いて死んだ者の場合には、森羅万象に憑依することも、まれにあるそうだ」
実存主義を標榜する義兄らしからぬ発言に、宕郎はいささか面食らった。
「つまり、あの青磁瓶には女の怨念がとり憑いていた、ということなのだそうだ」
「怨念・・・で、ございますか」
「うむ。かの国と我が神州とでは異なる面があるということは、お前も知っていよう」
「はぁ」
一応頷いてはみたものの、助五郎が言わんとしている事が、宕郎には今一つ理解できない。
「まだ御仏が降臨なされる前の話だ。氾濫する川に棲んでいる神を宥める為に、数名の女が生け贄として捧げられた」
「生け贄?」
「わからずともよい。要するに、儀礼の為に生きたまま川に投げ込まれた女たちがいた、ということだ」
「まさか」
「あの江という男の話をそのまま信じれば、だ。その際、殺された女たちの怨念が土に宿り、窯で焼かれ、瓶に変わったのだろう、と奴は言っておった」
「それで、あの瓶はどうなるのでございましょう。やはり割られるのでしょうか」
もしそうならば、ぜひ自分もその場に立ち会ってみたい。瓶の中には何も入っていなかったのだという事実を、しかとこの眼に焼きつけ、安心したいという言いたくなる気持ちを抑えながら、宕郎は尋ねた。
「いや、江が買い取った」
「今度は江殿を殺すのではありませんか?」
「いや、再び明の地を踏みさえすれば、もう怪異は起こさないであろうと言っていた。故郷に戻りたい一念が怨念と入り混じって、ああいう形で現世に現れたのではないか、とも言っていたな」
「なるほど」
女の生首が異国のものだと知って、宕郎は納得した。道理で喋っている言葉がまるで理解できなかったわけである。
「決まったのは、いつ頃で」
「一昨日だ」
宕郎の腕の出血が止まったのも、一昨日である。
「手違いとはいえ売ってしまった以上、江は同額の金子を支払って、瓶を買い戻すことにしたそうだ」
「左様でございましょう」
そうでなければ、高い金を払って青磁瓶を買い取り、隠岐守に献上した境の商人がやりきれないだろう、と宕郎は思った。
「しかし、隠岐守様は我らをお褒めあそばしたぞ。六文字の剛勇、魑魅魍魎も恐れず、と」
「喜ばしいことでございますなぁ」
「うむ」
新たにあつらえた扇子で自分の顔をあおぐ助五郎。
しばらくの間、座敷全体が静寂に包まれた。
「あの」
沈黙を破ったのは、宕郎だった。
「先日申し上げた、実家の手伝いの件なのですが・・・・・・もう一日だけ、続けさせてはいただけませんでしょうか」
「昨日、行ってきたではないか」
「はあ、それなんですが・・・・・・」
しばらく言い澱んでから、宕郎は気恥ずかしげに言葉を続けた。
「拙者、実家にて件の話をしたところ、二番目と三番目の兄が腰を抜かしてしまいまして」
(了)
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著作者:芹乃 栄 ホームへ
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