Aria
泣ける ほのぼの 死  文字数約9600字
著作者:相田 凪   著作者の作品一覧へ   ホームへ


[あらすじ]
わたしは水を飲まなければ生きてゆけません」──という、不思議な少女アリア。
人の手により作られたという彼女が、短い時と狭い世界で出合い別れた、切ない物語。
Aria
 わたしは水を飲まなければ生きてゆけません。
 それはどんな人間にも共通することではあるのですが、わたしの場合は少しだけ勝手が違いました。
 例えば健康な人間は、一滴の水を口にせずとも三日くらいは正常に活動することが可能です。もちろん、喉が乾くどころか健康にも決してよろしいことではありませんが、死ぬことはありません。
 しかしわたしの場合、一日に一定量以上の水を摂取しなければ死亡してしまうそうです。
 実のところ死んだ経験がないので真偽のほどは不明なのですが、わたしを生み出してくれた方がそう言っているのだから間違いではないのでしょう。
「ただいま、アリア」
 夕日に目をすぼめて呆けていると、わたしの生みの親であり育ての親である男性が帰ってきました。
 普段よりも幾十分かは早い帰宅に驚いていると、いつだったか彼がわたしに買い与えてくれた本に書いてあったことわざを思い出しました。うわさをすれば──
「おかえりなさい、庄蔵(しょうぞう)さま」
 思考よりも迎えの挨拶を優先して思考を中断。窓際の椅子から立ち上がり、わたしの名を呼ぶ主のもとへと歩を進めました。
 白いスリッパがフローリングをぺたぺたと奏でる音に陶酔しながら、いつもどおりに玄関で靴を脱いでいる最中の彼を正面に迎えます。朗らかに微笑む顔をデフォルトに設定されたかのような彼の血色は芳しくなく、いつもどおりに青白いようでしたが、かと言ってわたしが心配したところで誤魔化されてしまうのは常なので、何も言わずに彼の鞄を受け取ります。
「すぐにアリアの水を用意するから。少し早いけれど夕食の準備をしてもらってもいいかな?」
「かしこまりました」
 私よりも四〇センチメートルは高い位置にあると思われる彼の目がわたしをやさしく見下ろし、疲れた顔を無理に微笑ませながら頼んでくるので、わたしにはそれを断ることなどできません。
 もとより、どんな状況であろうと生みの親である彼の頼みをわたしが断る理由などないのですが。
 大学院の教授を勤める彼の自室は研究室を兼ねていたので、わたしが無断で入室することは許可されていませんでした。とはいえ、断りをいれてもそれを許可してくださることはほとんどないものですから、外套を脱ぎつつ彼が開いた扉の奥に見えた小部屋は乱雑に散らかり、およそひとが住めるような状況ではないことを確認するたび、わたしはいつも危惧しています。
 掃除も炊事も洗濯もわたしの仕事であるはずなのに、彼の部屋だけは掃除ができないのです。これは、職務怠慢になってしまうのではないでしょうか?
「そんな馬鹿なことはないよ」
 わたしが疑問を口にするたびに、彼は決まってそう言いました。



 食事の前に。
「いただきます」
 大きなワイングラスの半分ほどに注がれた水をゆっくりと口に含み、一息に飲み下しました。
 丸いテーブルを挟んで反対側に庄蔵さまの朗らかな笑みを見ながら、わたしはこくこくと喉を鳴らして最後の一滴まで水を飲み干します。例え目の前の料理が冷めてしまおうとも、彼はわたしが水を飲み干すその瞬間まで箸やフォークに手を触れようとすらしないので、このとき私はとにかく早く水を嚥下することだけを率先しました。とにかく、この時間がもったいないという罪悪感に駆られるがままに。
「急ぐ必要はないんだよ?」
「わたしにはあります」
「どんな?」
「庄蔵さまの食事が遅れてしまいます」
「別に構わないよ」
「せっかくの料理が冷めてしまいます」
「冷めても美味しいから大丈夫さ」
「暖かいうちに食べてもらいたいものですから」
 そこまでの問答で、彼は困ったように、しかしうれしそうに微笑み口をつぐみました。
 そして手元のスプーンを手に取ると、いつもわたしを見ながら「いただきます」と、なぜか丁寧に呟くのです。彼が主で私が従うという主従関係において不適切なのに。
 それに「いただきます」とは、わたしたちが生きていくために植物や動物たちの命を奪ってしまうため、弔いと感謝の意を込めて「いただきます」と言うはずなのに、わたしに向けて言うのは間違っていると思うのですが。
「いいんだよ。ぼくはきみに言いたいんだから」
 疑問は、疑問のままでした。



 わたしはロボットではないので疲れれば休息が必要なのは当然ですし、夜になればある程度の睡眠をとらなければ体を壊してしまいます。
 しかしどれほど疲れていようと早朝五時には起きなければ庄蔵さまの朝食が用意できないので、ときには眠い目をこすりながらもベッドから身を起こしました。
 冬という季節に入ってから一ヶ月。からりとした空気に心地よさを覚えると同時に喉の渇きを覚えるのは最近ではいつものことになりましたが、慣れてしまえば気になることはありません。寝ぼけ眼だろうと朝食を作っていれば、また食事の前に庄蔵さまが水をくださるのですから。
 スリッパをぱたぱたと音立てて台所に立ち、純白のエプロンを召しながら冷蔵庫の中を確認。卵がふたつとベーコンが三枚ほど残っていたので、それと昨晩のサラダを作って中途半端に余ってしまった野菜を取り出しました。そろそろ新しい食材を購入して足しておかないと、明日の朝はトーストだけしか食べられないでしょうか。
 昼間は庄蔵さまに任された仕事をしなければならないのでまとまった時間は取れません。よっていつも、日が暮れて仕事がなくなったあとに駅前の大きなコンビニエンスストアーに似た安価統一店で食材を購入しています。今夜あたり、またそこのお世話になることでしょう。
 わたしは残された食材でどうやって今晩の料理を揃えようか考えながら、野菜を洗うために蛇口を捻りました。



 その日は何かが違いました。
 とはいえ、何が違うのかははっきりとわかっています。
 今日は水曜日。土曜日でも日曜日でもなければ祝日でも祭日でもありませんので、庄蔵さまは大学院にて仕事があるはずです。
 しかし、わたしが定時どおりに朝食を作り終えてなお、彼は一向に自室から出てくる気配を表しませんでした。
 時刻は五時三十分。定時より十分ほど待ってみたものの、料理が冷める一方で庄蔵さまは未だに自室にて眠っているようでした。
 さて、これは困りました。
 五時五十分までに食事を済ませ家を出なければ、庄蔵さまは六時○二分発の電車に乗れず遅刻してしまいます。しかし許可を貰っていないわたしは、無断で彼の部屋に入ることはできません。せっかくの料理も冷たくなる一方です。
 あと五分だけ。いや、三分だけ待ってみよう。それ以上は待てません。大好きな庄蔵さまに叱られるのは気が引けましたが、それでいいのでしょう。



 結局、料理は朝食ではなくなりました。
 庄蔵さまに叱られるかもしれないという可能性がどうしてもわたしに勇気をくれず、彼の部屋の前で十分も立ち往生してしまった結果です。もう庄蔵さまが朝食を食べている暇はありませんし、冷め切ってしまった料理など食べてほしくありません。
「庄蔵さま、朝ですよ」
 軽く握った右手でコンコンと扉のノックし、扉越しでも眠った庄蔵さまに聞こえるよういつもより大きな声で問いかけました。
 そして目覚めて、寝ぼけた顔で扉が開いてください。
「庄蔵さま、入ってもよろしいですか?」
 応答がないので訊ねました。
 訊ねたところで、その応答もありませんでしたが。
「庄蔵さま、入りますよ」
 朝からこんなに彼の名を呼ぶのは久しぶりだと思いながら、わたしは何かを振り切るようにノブに手をかけました。
 蝶番が軋みをあげて扉が開かれ、古い紙とインクと埃の香りが漂ってきました。資料や医学書が天井まで積まれた本棚を横目に、窓の下で眠る庄蔵さまを見つけ、わたしはゆっくりと近づいていきました。
「庄蔵さま、朝ですよ」
 床に散らばった用紙を踏まないように絨毯に膝をたて、疲れた顔で眠り続ける庄蔵さまの肩をやさしく揺らしました。
 すると今まで身動きひとつしなかった彼がわずかに眉をしかめて身じろぎし、わたしはどきりと心臓を掴まれたような感覚で不安になりました。その瞬間、庄蔵さまが怒ってしまったかのように見えたからでしょう。
「庄蔵さま、起きてください」
 それは何度目の呼びかけだったでしょうか。
 彼はゆっくりと瞼を開くと、眩しそうに目をしばたかせたあと、わたしを見て枯れた声で呟きました。
「すまないねアリア……どうやら風邪でもこじらせてしまったらしい」
 寝起きと疲労により憔悴した顔でも、彼は笑いました。
 わたしは決して驚かなかったわけではありません。ただ、いつも青白い顔で疲れていた庄蔵さまならば、いつ体を壊してもおかしくはないだろうと予測をしていただけのことです。
 わたしは静かに吐息をつくと、庄蔵さまの笑顔を見返して立ち上がりました。
「大学に連絡してきます。それと、何か栄養があって食べやすいものを」
「本当にすまないね……きみの水も用意しなくては」
 わたしが部屋を出ようとすると庄蔵さまも一緒に立ち上がろうとしましたが、少しだけ無言で睨んで肩を抑えてあげると、彼は降参したようにベッドに腰掛けました。本当はそのまま横になってほしかったのですが、食事をするのに横になっていては不便なので、そこまでは強要しませんでした。
「すぐに戻りますから」
 たぶん意味のない言葉なんだろうと思いつつも、そう言わずにはいられませんでした。



 庄蔵さまが体調を崩してしまったこと、しばらく休養が必要なことを大学に電話して伝え部屋に戻ると、彼は静かにベッドで横になっていました。
 意外に思いつつもスリッパがぺとぺとと音を立てないように歩み寄ると、庄蔵さまの規則正しい寝息が聞こえてきて、改めて意外に驚きました。彼の性格から考えれば、多少の体調不良ならば隠し通そうとするのにもかかわらず。
 しかし乱雑に散らかったデスクの上を見て、わたしは納得しました。
 いつものグラスとはまるで違う、確かビーカーというガラスの容器に注がれた水を見つけたので。
 わたしは庄蔵さまを起こさないように細心の注意を払いながらビーカーを手に取ると、音を立てないように飲み干しました。



 四日が経って、庄蔵さまは未だに床に臥していました。
 ここまできてようやくただの風邪ではないと気づいたわたしは、まるで駄目なのでしょう。自分自身がふがいなくて、とても悲しい気持ちになりました。
 わたしの仕事は庄蔵さまの世話をすることなのに、世話をするだけで、しかし何もできていない。
 だからわたしは悲しくなって、情けなくなって、どうにかしなければという気持ちに苛まれました。
 何か、わたしにできることはないのか。わたしが庄蔵さまにしてあげられることはないのか。
 庄蔵さまはどんなに具合が悪くても、わたしを死なせないために毎日二度、わたしに水を用意してくれます。なのにわたしは、何もできずに庄蔵さまを死なせてしまうのではないか。そんな不安が、とても恐怖でした。
 胸が締め付けられる感覚。
 心臓をぎゅっと握られている感覚。
 それがとてもとても不快で、わたしは気づけば、足元に積まれた医学書を手に取っていました。
 本来はお医者様に頼るべきはずなのに、どうしてもわたしが何とかしてさしあげたくて。
 専門的な単語ばかり並んでいたので、わたしは国語の辞書を同時に開きながら、時間を忘れて読みふけりました。
 そして、やがて結論を見出したときには、夜は更けて朝日が顔を出し始めていたころでした。



 朝。
 庄蔵さまの部屋におかゆを持って訪ねると、彼は手に水の注がれたフラスコを待っていました。
「おはようアリア。今朝の分の水だよ」
 日に日に悪くなっていく彼の顔を直視するのが辛い。無理にでも笑おうとする彼の表情を、どうしても見れない。
 だけどこの日のわたしにはどうしても彼に確認しなければならないことがあったので、静かに呼吸を整えたのち、彼のまなざしを真正面から見据え返しました。
「庄蔵さま」
「何かな、アリア」
「その、わたしのための水は、どうやって用意なさっているのですか?」
 庄蔵さまの表情が、わずかに曇った気がしました。
 おかゆをよそったお碗とわたしのための水が入ったフラスコを交換しながらも、わたしは庄蔵さまを見つめ続けます。
「それにこれは、水というものではありませんね」
 両手に持ったフラスコの中で揺れる液体に視線を落とし、わたしは昨晩に更新されたばかりの知識に基づいて言いました。
「これは、水ではありませんね」
 二度目の確認。
 庄蔵さまは、何も答えません。
「これは、水ではありません」
 三度目は確信による発言でした。
 庄蔵さまは、何も言いません。
「これは、庄蔵さまの血ではないのですか?」
 抱えるように持っていたフラスコを庄蔵さまに掲げるように提示し、わたしは強く訊ねました。
 フラスコの中に注がれた赤い紅い水──人間の血液の水面が揺れ、庄蔵さまの瞳が悲しげに揺れました。
「これは、」
「ぼくの血だよ」
 その瞬間、わたしの心をずっと掴んで離さなかった不安という気持ちが、瞬間に熱いものへと豹変するのを感じました。
 それが生まれて初めて感じる、憤りという気持ちだったのでしょう。
 わたしは水を飲まなければ生きてゆけません。
 わたしは血を飲まなければ生きてゆけません。
 だから人間の血を飲むというわたしの行為は、生存本能に従った当然の行いかもしれません。
 しかし問題はそこではないのです。
「なぜ、自分の命を削ってまでわたしに血を?」
 わたしが問うと、庄蔵さまは無言で青白い顔を窓の外へ向け、わずかなのちに遠い彼方を眺めるような視線を自らの膝の上へ落としました。
「数年前、ぼくは親しい友人たちとひとつの計画を打ち立てた」
 淡々と過去を語り出す庄蔵さま。
 それがわたしの疑問に対する答えに繋がるとは思えませんでしたが、わたしは無言で彼の言葉に耳を傾けました。
「その名を、〈メトシェラ計画〉という。
 アリアは、その計画により生まれた〈長生種〉だ」



「不老不死の長寿は、人間にとって至高の願いだ。
 ぼくと友人たちは、旧約聖書の創世記において九六九年もの時を生きたとされるメトシェラを実在の人物として仮定し、研究を進めるにつれ、それが実際にこの現代で再現する方法を見つけた」
 彼の手には、温もりを失い始めたおかゆ。
 わたしの手には、未だ彼の温もりを仄かに残す紅い水。
 彼がそうするように、わたしも視線を手の中へと落としました。フラスコの小さい口から丸底までは、半透明の赤により見通すことはできませんでしたが。
「詳しく話していると切りがないが、アリアは特定の条件を満たせば半永久的に若さを保ち続け、もちろんその間はひたすらに生き続けることができる。その特定の条件というのが、」
「血を摂取し続けること、ですか?」
 庄蔵さまの言葉をひったくるように継ぐわたし。
 そのつもりはなかったはずなのに、その声は咎めるような色を含めてしまっていました。
「そして、摂取しなければ死んでしまうというのですか?」
「ああ、その通りだよ」
 フラスコの血から視線を上げると、不意に庄蔵さまと視線が合いました。
 きっとそのときわたしは、怒っていたのでしょう。怒っていました。
 だけど、不思議と怒声は出ませんでした。
 必死になって搾り出した声は喘ぎとなって言葉を持たず、両の瞳から蛇口を捻ったかのように流れ出てくるのは、かつてわたしが水として認識していなかった液体に良く似ていました。
 それが涙なのだということに気付いたときには、両目から溢れた透明の液体は頬を伝い、小さなフラスコの口を通って紅い血の中に滲んでいました。
 初めて流した涙が唇の端から舌の上へと滲み、わたしは手中のフラスコを両手で握り締めながら訴えました。
「わたしの認識は間違えていました。庄蔵さまは、馬鹿です」
「そうかもしれないね」
 そう言った拍子に、窓から差し込む日差しの傾きが変わって庄蔵さまの表情が陰りました。
 黒く塗り潰された彼の顔。それでも苦笑しているのだとわかるのは、きっと彼が単純な人間だからなのでしょう。あるいは馬鹿だから単純なのでしょうか。
「でもぼくは、きみに死んでほしくない。勝手に生み出しておいて何をと思うかもしれないが、アリアには死んでほしいなんて思ったことはないし、これからも永久に思わない」
 わたしの視界にはもう何も写ってはいませんでした。
 涙のプリズムで刻一刻と歪み方を変える世界の中に、ただ庄蔵さまだった黒い影を捉えているだけ。
「だからといって、庄蔵さまは死んでも構わないというのですか?」
「ぼくは死なない。ぼくが死んでしまったら、アリアに血をあげられなくなってしまうからね」
「でも毎日のように血を抜いていれば、こうして体調を崩すのも当然ですし、いつかは死にます。遠くない未来に、きっと死にます」
「それでもぼくは死なない」
「なぜ、」
「きみを愛しているから」



 何も見えなかったわたしには、庄蔵さまがどんな表情をしていたかはわかりません。
 いえ、厳密にはわかっていました。
 きっと彼は、この上なく朗らかな笑みを浮かべて微笑んでいたことでしょう。
「でも、でも……」
 人間が涙を流す理由がわからなくて、その機能を恨めしく思いました。これのせいで、わたしは大好きな微笑みを見ることができずに。
 わたしは混乱しているようでした。さっきまで怒っていたはずなのに、気付けば泣いていて、今では自分の感情がわかりません。
 震える手でフラスコを握り締め、わたしはただひたすらに歪んだ世界で庄蔵さまを見つめ続けました。
 そしてしばしの時を置き、やがてわたしも冷静を取り戻した頃に、わたしは再び彼に問いました。
「でも、絶対なんてありえないんですよ」
 その言葉に、庄蔵さまは困ったように眉をハの字にひそめたようでした。
 わたしは再びフラスコに目を落とし、ゆっくりと呟くように。
「細心の注意を払っていても庄蔵さまは死んでしまうかもしれませんし、庄蔵さまの血を飲み続けてもわたしは死んでしまうかもしれません」
 今度の庄蔵さまは、何も言いませんでした。
 つまり彼も、同じことを考えているのでしょう。わたしに血を水だと偽って教えていたのにも関わらず、イエスかノーかの些細な嘘はつけない馬鹿なひとなのです。
「だからわたしは、この血は飲みません。今後も、例え庄蔵さまに強要されようとも飲みません」
 さきほどから両手に抱え続けているフラスコの中身は、すっかり冷えて粘性を増していました。
 赤黒く変色したそれは、もはや飲めるものではないでしょう。そもそも血というもの自体、人間が飲むにはまったく適さないのですが。
 すっかり冷え切ったおかゆを手に、庄蔵さまは動揺しているようでした。驚きと困惑に揺れる瞳でわたしを見据え、さきほどまでのわたしのように言葉が発せられないのか、口を開いたり閉じたりしているだけ。
「アリア、何を、馬鹿な」
 本当はフラスコの中身をこの場で捨ててしまいたかたったのですが、それでは後始末があまりに大変そうだったので自粛しました。
 わたしはテーブルの片隅に転がっていたゴム栓を摘むとフラスコの口に捩じ込み、中身がこぼれないように抱え込みました。
「血を飲まなければ、きみは死んでしまうんだよ?」
「その確証はあるのですか? その根拠はあるのですか? わたしと同じ人間で実験をしたのですか?」
 気付けば先ほどとは立場が逆になっている気がして、途端におかしくなって笑いたくなりましたが、微笑むだけに留めました。
 笑ってしまってはこの立場を楽しむこともできませんし、先ほどのお返しもまだしていませんでしたので。
「わたしは、血を飲まなければ本当に死ぬのですか?」
「そ、それは……」
「わたしは死にません」
「それこそ、確証がない」
「それでもわたしは死にません」
「なぜ、」
「あなたを愛しているからです」



 ふたりでたくさんの涙を流しながら時を過ごし、そのあとで吹っ切れたように大笑いしました。それまで声をあげて笑ったことなどなかったので、笑うことで呼吸困難になるという不思議な体験がまたおかしくて、笑えば笑うほど息を切らして顔の筋肉が疲れました。
 それを見た庄蔵さまがまた笑うので、わたしも幸せになって笑いました。
 ひたすらに笑いました。
 しかし、運命はそれほど都合のよいものでもないようです。
「庄蔵さま、わたしを作ってくれて、本当にありがとうございました」
 どす黒く変色したフラスコの中身を見ることもなく、わたしは彼の幸せそうな目を見てそう呟きました。
 歪んだ視界の中心で、庄蔵さまの青白い顔がさらに血色を悪くするのだけが確認できました。きっとわたしも、彼と同じような──いや、それ以上に悪い顔色をしているのでしょう。
 それでもわたしは必死に笑顔を作って、涙も出ていないのに歪み続ける視界で庄蔵さまの顔を見ようとしました。
「ごめんなさい、庄蔵さま。やっぱり、駄目みたいです」
「アリ、ア……?」
 最期に庄蔵さまに触れたくて伸ばした腕があまりに重くて、わたしは自分の死期が急速に近づいていることを改めて認識しました。
 やっとのことで触れた彼の頬は熱く……違う、わたしの手が氷のように冷たくて──
 フラスコの血はもう飲めません。そして飲む気もありません。またどちらにせよ、庄蔵さまからこれ以上の血液を搾取しようものならば、わたしは生きることができても彼は死んでしまうでしょう。
「でも、それでいいのです」
 生み出されてから約一年程度。わたしはこの家で庄蔵さまと過ごし、いろいろなことを学びました。
 火を触れば熱いこと。氷を触れば冷たいこと。針を触れれば痛いこと。
 台所に出たゴキブリを追ってスリッパをぽてぽてと鳴らして廊下を走っていたら、庄蔵さまに家の中で走ってはいけないと叱られて悲しかった。
 家事をするのに長い前髪が邪魔なのだと訴えたら、庄蔵さまが自分の長い髪を項で束ねていた輪ゴムでわたしの前髪を纏め上げてくれたことが、不思議と嬉しかった。
 帰りが遅くなることをわたしに伝えてくれず、せっかく作った料理が冷めてしまって怒ったこともあった。お詫びと言い訳して買ってきたボードゲームで一晩中遊んだ夜が楽しかった。
 わたしを構成する全てがこの家にあって、庄蔵さまのためにありました。
 だから、いいのです。
「わたしは、庄蔵さまが生きていてくだされば、それでいいのですから」
 何も見えなくなった世界で、何も感じなくなった世界で、それでも庄蔵さまの温もりを全身に感じて、わたしはゆっくりと両腕を彼の背中へと回しました。
 きっと、床に座り込んだまま抱き合っている状態なのでしょう。わたしにはもう、確認するすべなどありはしないのですが。
「それでいいのですから、わたしが死んでしまったあとで、いつまでも悲しんでいないでください。でも、わたしとの別れをちょっとだけ悲しんでください。本当に、ちょっとだけでいいですから」
 庄蔵さまが何かを言った気がしましたが、もはや聞き取ることなどできませんでした。
 迫り来る死に恐怖はありません。
 ただ、不安があるだけ。
 わたしがいなくなっても、庄蔵さまは自分で食事を作れるでしょうか。
 わたしがいなくなっても、庄蔵さまは自分で洗濯ができるでしょうか。
 わたしがいなくなっても、庄蔵さまは自分で掃除してくれるでしょうか。
 特に最後のひとつは不安です。この部屋の乱雑さを見てもわかるように。
「もしかしてわたし、わがままですか?」
 この疑問にも、彼は答えてくれませんでした。
 なんだか最近、わたしの問いはいつも誤魔化されている気がして少しだけ複雑な気分になりましたが、それ以上は何も考えられませんでした。
 庄蔵さまの声はもうわたしには届きませんし、わたし自身の声もわたし自身で聞こえていません。
 だから最期に、わたしは呟くように囁くように、もう一度心の底から叫びました。



 わたしを作ってくれて、本当にありがとうございました。
 わたしアリアは、庄蔵さまを



 (以下、語り死亡により不明)



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