「夜空より墜つる十二の法」より〈人馬宮と獅子宮の舞曲〉
ファンタジー小説 バトル 超能力  文字数約12500字
著作者:相田 凪   著作者の作品一覧へ   ホームへ


[あらすじ]
夜空に輝く星座の力をその身に宿した異能者たち。
ある者は見えない弓を番え、ある者は巨大な鎌を手に夜を駆ける。
世界の闇で暗躍する彼らの生きるセカイを、今垣間見せよう──
「夜空より墜つる十二の法」より〈人馬宮と獅子宮の舞曲〉
 駅を出て、商店街に入るや否や、すぐに路地へ左折。
 駅前とは対照的に人気少なく、四季を無視して湿気豊富そうな小道を抜けると、彼女の家はぽつんと点在していた。
 都心に近いこの地だが、それは比喩とか大袈裟なわけでもなく、本当に辺りには何もない。所有者から見放され、荒れ果てた土地には草木が高く生い茂り、中央の小汚いアパートを街から孤立させていた。
 ただ乱暴に草木を刈り取っただけの、まるで獣道のような細い道を進み、錆び付いた階段を上る。さらに手摺の崩壊した通路を奥まで行くと、突き当たりの扉の脇に呼び鈴を見つけ、とりあえず押してみた。が、反応どころか、呼び鈴が鳴った気配すら皆無。
 だからと言って無断に扉を開けるわけにもいかないので、反応の有無は気にせず、ノックだけでもしておこう。
 そして俺が、右拳で軽く扉を叩いた、まさにその刹那。
 俺の手が置かれた、わずかに左。「神津」と記された表札を貫いて、薄い扉から鋭い刃の切っ先が飛び出してきた。計られたように俺の眉間を掠めて止まった長弓用の矢を眼前に、俺は警戒だとか緊張だとか、そんな類のものを全て忘れて呆然と立ち尽くす。
 無様に硬直したまま数瞬が過ぎ、俺はようやく沸き上がった憤りを抑えつつ、扉を蹴破った。感覚からして施錠はされていなかっただろうが、いわゆる八つ当たりだ。
 通常とは逆方向に開いた扉の奥は、アパートの外見とは裏腹に、それなりの整頓がなされていた。いや、厳密に言えば、ほとんど何もないので整頓されているように見えるだけ、かもしれない。
 女性の部屋とは思えないほど殺伐とした部屋には、中央にコタツが設置されているだけで、あとは片隅の衣服掛けにいくつかの服と革のコートがひっかかっているだけ。玄関口から見渡せる限りが、この部屋の限りだ。とにかく狭いし、本当に何もない。
 ところで先ほどの矢の射手はと言えば、小さなコタツで項垂れたまま、俺のいる玄関口に右掌を向けていた。あまりに生気のないその雰囲気は、綺麗な黒髪すらも幽霊のそれと思わせる。単刀直入に言えば、不気味ということだ。
 その死人の瞳が何よりも邪悪この上なかったので、俺は彼女への第一声に困る。困った挙句、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「……何か用?」
 その声に、俺が知っている彼女の覇気はまったくなかった。
 未だに俺に向けていた右掌をゆっくりとコタツの中へ戻しながら、彼女──神津九紀(コウヅ・クキ)は、続けて死人の声を発する。
「……大した用じゃなかったら帰って……私は空腹を誤魔化すのに忙しい……」
「だったら、無意味にこんなもの使うな。あるいは仕事しろ」
 足元に倒れた扉の、中央。一メートルを越える長大な矢を示し、俺は苛立ちを通り越して怒る気力もなくしていた。たぶんこいつは、戦闘以外は最大級の馬鹿だ。
 世界最強の法属暗部〈ゾディアック〉が、聞いて呆れる。本当にこいつは、世界最強の称号を名乗る法術士、〈サギッターリウス〉なのだろうか。
 俺自身が指し示す先に、その証拠である法術の痕跡があるというのに、というか、俺も九紀の同僚として〈ゾディアック〉に属しているというのに、それでも疑いたくなる。
 世界最強のこいつが死んだと聞いたら、俺ならばまず最初に餓死か、転んで豆腐の角に頭をぶつけたのだろうと思うに違いない。というか、それ以外にこいつが死ぬ原因が見つからない。殺さなくても、勝手に死ぬタイプだ。九紀を殺したい輩は、下手に手を出さず、むしろ放っておけばいい。
「……どうした?」
 無駄な思考をしている隙に、九紀がついにコタツに突っ伏し、死んでいた。
 理由など判っていたが、無意識に訊いてみたのは、九紀に対する社交辞令みたいなものだったのかもしれない。
「……今ので、空腹に止め刺した……」
 俺よりも実力が上とは、絶対に思いたくないような発言を、今は我を捨てて受け止める。
 先ほどの九紀の死亡原因に、俺の手による殺害も加えておいてもよいかもしれない。勿論、餓死寸前の瀕死の状態時に。
 紹介が遅れに遅れたが、そんなことを考える俺は、水城槙(ミズキ・シン)。
 九紀と同じく、法属暗部〈ゾディアック〉に属する中でも、最高十二宮階位のひとつたる〈獅子座〉を司る法術士。〈レオ〉の称号を携え、その身に宿した百獣王の膂力を以って敵を破砕する戦士。それが、俺だ。
 一応、目の前で餓死寸前まで追い込まれた九紀の、相棒に任命された人間でもある。以前にも何度かあったが……最後に組んでから、早二年。まさか二度とこいつの相棒を勤めることになるとは、思いもしなかった。いやむしろ、あまり思いたくもなかった。



「……で、今回の仕事は?」
 駅前の喫茶店の一角。窓際禁煙、俺の対面に座った九紀が、生気を取り戻した表情と声色で尋ねてきた。
 本当に餓死されるといろいろと面倒なので、軽く昼食を奢るつもりだったのだが……五人前を優に超える食事が、この細い肢体のどこに詰まっていったのか。ひたすら謎で疑問だ。
「喰った途端に仕事……現金な奴だな……」
「だってほら、働かざる者喰うべからず、って言うし」
「おまえの場合、順序が逆だ……適当に仕事こなせば、山のような報酬が入るだろうが……」
〈ゾディアック〉の仕事依頼は、基本的に不定期。とはいえ、俺や九紀のような法術士は、世界にも八十八しか存在しない。
 並びに、各々が完全に個別の能力を有し、全く同じ法力を持つ人間はふたりといない。法術士全員が〈ゾディアック〉の配下にいるわけではないが、場合により仕事内容に適する法術士が選ばれ、世界各地に派遣される……はず、だが。九紀はその中でも最強と評される、〈射手座〉を司る法術士。仕事の依頼が来ないということは考えられない。
 ……すなわち考えられる可能性は……。
「仕事、嫌い!」
「言い切るな! そして自らの発言を三秒で矛盾させるな!」
 傍から見れば奇妙この上ないだろうという、意味不明の痴話喧嘩……に、見えるだろうか?
 認めるまでもなく、不思議なふたり組であることは確かだが。
 早くも九紀の真人間化を不可能と断定した俺が、窓の外に目を馳せるのとほぼ同じタイミングで、彼女は氷水で満たされたグラスを口に運ぶ。冷水に浮かぶ氷を口に含み、噛み砕く音だけが、しばし沈黙の合間に流れた。
「……れも、まぁ……」
 それは、でも、と発音したかったのだろう。氷で麻痺した舌先は呂律が回らず、九紀は間抜けな言葉を発しながら、俺を倣って窓の外を眺める。
「別に、仕事したくない、ってわけじゃないんだよね。ただ、私にもちょっとした“こだわり”くらいある、ってだけのこと」
「おまえの“こだわり”は、餓死寸前まで仕事しないで楽することか……?」
 いや、冗句で言ってない。かなり本気で言った。だから睨むな、九紀。
 それでも、ここが公共の場であることを無視して法術をぶっ放してきそうだったので、視線で謝罪の意図を示しておく。こいつなら、世界的に隠蔽されている法術だろうと、我関せずで発動してもおかしくはなさそうだ。
 そしてそのまま続くかと思われた再びの沈黙は、やはり九紀が破る。
「私にも、相棒を選ぶ権利くらいある。ってことが言いたい」
「別に訊いてない」
「別にただ言いたかっただけ」
 本当に、特に興味がなかったので適当に受け流したつもりだったが、九紀の発言はむしろ興味を持ってほしいような、言葉の意味とはまるで逆の雰囲気を持っていた。女性は時折、反語を用いて相手に理解を求めることがあるらしいが……生憎、俺はそれらを解釈できるほど臨機応変な性格はしていない。所詮、猪突猛進の〈獅子座〉だ。
 それでも、九紀の言いたいことが理解できなかったわけではないが、その意図だけは掴めなかったので、無碍に追及しないことにした。いくら九紀が捻くれていても、言いたいことは最後には自分ではっきり言う奴だ。問うても無駄だろう。
 今は……仕事だ。
「十二宮階位の法術士がふたりも必要な仕事って、ずいぶんと久しぶりね。どうせまた、裏政府の連中にとって邪魔な法術士の始末でしょうけど」
 頬杖をついた九紀が、追加注文のオレンジジュースに浮かぶ氷をストローで弄びながら、独り言のように俺の言葉を先取った。
 すなわち、俺たちの仕事は九紀の考える通りだ。
 先にも述べたとおり、世界に八十八人存在する法術士全員が、〈ゾディアック〉に所属しているわけではない。むしろ、八十八人のうち、〈ゾディアック〉に所属している人間のほうが少ないに決まっている。だが〈ゾディアック〉とは元々、万物の摂理を超越する魔術、もとい法術を使役する法術士を統合するために作られた組織。ここに所属しない法術士は、大概が自分の法力に気付いていないか、所属を拒んで裏政府の邪魔者扱いされている連中だ。つまり法力を悪用した奴が、俺たちの標的となる。
 法術には攻撃的なものもあれば、生体の修復、回復、あるいはただ距離を正確に計るだけ、というものもある。俺と九紀、つまり最高十二宮階位の戦闘法術士が借り出されたとなれば、今回の敵が攻撃型の法術士であることは間違いないだろうが……それにしても、やはり“ふたり”というのが気になるところだろう。
 だがその答えはといえば、単純だったりもする。
「相手も、最高十二宮階位の法術士……だそうだ」
 橙色の液体をストローで吸い上げていた九紀の瞳だけが、俺を見据えた。それは真偽を問う眼差しではなく、ただ少し驚いたから、という安易な理由の視線。俺は沈黙を以って九紀の視線を受け、彼女の言葉を待つ。
 数秒の後、そのままオレンジジュースを飲み干した九紀は、八重歯にストローを銜えたままグラスを置き、俺が考えていたよりもあっさりとした口調で、思考をそのまま声に出した。
「〈ゾディアック〉にいないのって、〈牡羊座〉と〈蟹座〉と……あと、〈魚座〉だけだっけ?」
「おまえがしばらく本部に顔出さない間に、〈山羊座〉の爺が死んだがな。だからといって、すぐさま新たに〈山羊座〉の法力を持つ人間が厄介者になることはないだろう。その三種のどれかだ」
 九紀は静かにストロー越しの吐息をつき、興味ないとばかりに再び窓の外へ目を向けた。彼女が参入するまで〈ゾディアック〉最強を誇っていた〈カプリコルヌス〉こと〈山羊座〉のアーネスト・スコールマンとは、幾度となく面識があったはずだが、彼女にとってはどうでもよいことなのだろう。
 まぁ、俺にとってもどうでもよいことなのだから、当然といえば当然かもしれない。所詮、死因は老衰だし。
 三度目の沈黙。これもやはり、九紀の素朴な疑問が破ることとなった。
「それにしても、なんで法術士って、日本人にばっかり多いんだろうね」
 唐突だが、本当に素朴な疑問。
 世界に八十八人しか、法術士は存在しない。なぜならば、天体には八十八個しか星座が存在していないからだ。天空の星座をその身に宿し、あるいは放出し具現化し、物理法則を完全に無視して奇跡を引き起こす法術。ひとつの星座がひとりにしか宿らないとなれば、当然、星座の数と法術士の数は等しい。中国にはまた異なった星座が存在しているが、その力を使役するのは“極術”と呼ばれ、厳密には法術と差別されているので、今はおいておこう。
 すると浮かび上がってくるのは、八十八人の法術士のうち、異常な日本人の比率。
 例えば俺は日本人で法術士だし、九紀も当然日本人。〈ゾディアック〉に属する〈ゲメニー〉こと〈双子座〉の葛葉梓(クズハ・アズサ)も日本人だし、同じく〈タウルス〉こと〈牡牛座〉の砌由宇(ミギリ・ユウ)も日本人。この時点で、十二人しか存在しない最高階位、最高十二宮階位のなんと三分の一もが日本人だ。さらに、今回俺と九紀が始末するだろう法術士も日本人だと聞いたので、この数は異常だ。まるで星たちが、選んで日本人に宿っているかの如く。
 その真相が何なのか。そもそも真相など存在せず、単なる偶然なのかすら、現段階では不明。
 だが、おおよそ九紀には、やはり関係のないことなのだろう。彼女にとって法術とは、触覚とか味覚とか、そんな五感の延長上にさり気なく存在するだけの感覚に過ぎないのかもしれない。
 裏があっても気にしない。ただその裏が気に入らなかった場合のみ、その最強の法術にて叩き伏せる。それが九紀の“気紛れ”だ。
 俺は当然、それらの思考全てを口に出すわけもなく、ただ一言を述べるだけにした。
「星の気紛れだろ」



 九紀のアパートの如く寂れた廃ビル。その老朽化し剥がれ落ちたコンクリに手をつきつつ、非常階段を屋上まで駆け上がる。
 低い鉄柵を飛び越え屋上の縁に片足をかけた俺は、都心だが人気がないどころか、生物の気配すら希薄な廃ビルの町並みを、見下ろした。黄昏の赤銅色に染まる壊れかけた街は、俺の幾度とない仕事の爪痕だ。俺の法術は人気の多い場所で気安く使用できるほど静かではないので、ほとんどの場合においてこの廃墟街へ誘導したのちに作戦を実行する。今回も例外なく、予め闇商人を偽った〈ゾディアック〉の仲間に誘導を頼んでおいたのだが、相手も馬鹿ではないらしい。
 ──気付かれたな。
 指定した待ち合わせ場所であるビル内で高速移動する影を確認し、俺は心の裡で悪態をついた。
 目標のビルを中点に、俺とは対称の地点に潜んでいるはずの九紀の姿が、すでにない。気付かれたと悟るや否や、すぐさま行動に移ったか。
 人の群がる都心まで、それほどの距離はない。逃げられれば、二度目の機会は存在しないだろうと判断した九紀の、迅速かつ正確な判断。
 それは、あまりにも常識を逸脱した行動だった。
 隣のビルの屋上へ、そしてさらに隣のビルの四階の窓へ、次々と飛び移る九紀。長い黒髪を残影の如く引き連れ、狩人と化した九紀は標的を追っていた。
 呆けていると、数分と経たないうちに俺の出番もなく仕事が終了してしまうかもしれない。
 直感的にそう感じた俺は、九紀を倣って隣のビルへ跳躍。窓硝子を砕いて室内へ転がり込み、一直線にビルを貫いた。
 再び窓硝子を叩き破って跳躍した先は、車が二台は並ぶ広さの舗装道路だった。五階の高さから中空に身を投げ出した俺は、法術により強化された全身の膂力を、その落下加速に乗せて大地に叩きつける。
 両踵に砕かれ舞い上がった、アスファルトの粉塵とコンクリの砂塵。その中を突き進むように、俺は九紀が跳ぶほうへと進行方向を定める。
 敵の能力がいかなるものなのか、現段階では完全に不明。何座を宿しているのかでも判れば予想できるが……それまでが問題だ。一般常識の通用しない法術士を相手にするのは、敵の正体が判っていないのと等しい。それは相手にとっても同じなのだが……二対一とはいえ、接触直後は互いに探りあいの闘いになるだろう。
 そうなると、九紀とは早めに合流したほうがよさそうだ。
 盛大な破砕音が響いてきた方向に、十字路を右折。どうやら九紀はすでに敵と接触したらしいが、本当に俺の出番がなくなりそうだ。
 二度目の大音声を左手のビルに見上げ、危うく通り過ぎるところだった廃ビルの正面玄関を振り返る。三度目の爆音でビルの壁が吹っ飛んだのを視界の端に捉えながら、俺は自動で開かない自動ドアをこじ開け、階段で階上を目指した。
 さらに轟音。俺に居場所を教えるためだろうという九紀の意図を汲み取り、俺は標的の存在を屋上に確認する。
 だが、ビルの半分を上ったころだろうか。唐突に、轟音は止まった。
 まさか本当に、俺の出番がないまま仕事が終了したのだろうか。いや、それとも……。
 ……否、そんなことはあり得ない。
 だが、この胸騒ぎは何だ……?
 世界最強を誇る九紀の敗北など、俺には想像できない。
 九紀が、たったひとりの法術士に敗れるなど……。
 ──あり得ない。
「……馬鹿な……」
 ようやく屋上へ辿りついた俺は、目の当たりにした光景を信じることができず、驚愕の声は無意味な呟きとなって虚空を漂い、消えた。
 得体の知れない何かによって、数箇所が陥没し、陥落し、崩壊している屋上。それが九紀の法術によるものだったのか、それとも敵の法術によるものだったのかは判別の余地もない。
 ただひとつ判ることは、その空間に立っている人間が、たったひとりの男だけということだった。
 四本の腕を組んで佇む男は、まるで金の短髪を携えた戦神の描写であるかに思えた。
 肩口から千切れた第三者の腕をその胸に抱える姿を優美と思う、歪みに歪んだ感性を持っていたならば、だが。
 さらに表面のコンクリが吹き飛び、鉄筋が剥き出しになっている箇所の脇にもうひとつの人影を見つけ、俺は息を呑む。
 夕焼けよりもなお赫い鮮血の海の中心に、両腕を失った九紀が倒れていた。
 憤怒や憎悪、恐怖や戦慄が思考を支配するよりも早く、俺の理性が警鐘を鳴らしている。仕事を放棄し、失敗と認め、今すぐこの場から逃げろと告げている。
 全身の毛穴から気味の悪い汗が噴き出し、背筋を氷の塊が滑り落ちる錯覚。
 だがそれ以上に、俺の心は悲痛に叫んでいた。
 ──嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだウソだ……!
「誰が、信じるかァ……ッ!!」
 俺の激憤する感情が、限界を知らない法力の奔流となって溢れ出す。全身が総毛立ち、筋肉が隆起し、俺に獅子が宿った。
「……おまえも、こいつの仲間か……」
 男が鋼の声で呟き、その胸に抱えた九紀の腕を地に落とす。
 その問いに答えることなく、俺は低く飛翔していた。地を掠める脚が急激に上昇して蹴り上げられ、男は後退。拳の追撃をさらに退いて躱し、鉄柵の上へと着地する。
 その間に、俺は男に関しての情報を記憶から引き出し、再確認していた。
 声色同様、鋼の表情を持つこの男の名は、邑上宗一(ムラカミ・ソウイチ)。詳細はおろか、情報という情報はほとんどが不明で示され、聞いた話では本人ですら自身をよく知らないらしい。日本刀を振るう能力者だという話を聞いていたが……そんなものを持っている様子はないので、法術により具現化したものを使用するタイプの法術士だろう。
 すると、注意すべきは得物の間合い。それは一定の基準──邑上の場合、おそらく刃物という条件──を満たせば、法術士の思うがままの形を取るはずなので、この広くないビルの屋上では、行動範囲全てが間合いと考えてよいだろう。
 肉弾戦を主体とする俺には、圧倒的な不利だった。
 だが、俺がやらねば誰がやる。目の前にいるのは、世界最強を越えた法術士──九紀を殺した、仇だ……!
 ──俺が、殺す!
 コンクリを踏み拉き、一直線に疾駆。邑上の眼前で反転して急停止すると、振り上げた脚の重みだけが回転を緩めずに邑上を急襲する。俺の頭上を越えて蹴りを回避した邑上の、寸前まで立っていた柵が、獅子の膂力を受けて拉げ、千切れ、吹き飛んだ。
 そして直後──振り返る先に着地する邑上の手中に、二振りの短い日本刀が出現する。
 それが双方とも脇差だと気付いたころには、すでに遅い。
「──邑上流脇差二刀之舞、其の参のひとつ、」
 掲げられた二刀の脇差が、遠い間合いをそのままに、ひとつは天より叩き下ろされる大瀑布となって、ひとつは地より巻き上がる暴風となって──
 俺の思考の片隅が、邑上は〈蟹座〉を宿す者なのだと気付いた瞬間。視界が朱に染まり、直後、胸を縦二列に裂かれる激痛が灼熱と化した。
「──天地斬観音鋏撃」
 離れた間合い。空を切る蟹鋏の如き二刀の脇差。
 だが確かに、俺の胸は切り裂かれた。
 そして、俺が邑上の秘密に気付いた直後──俺の意識は、途絶えた。



 金属を擦り合わせるような耳鳴りが、なぜか心地よい。
 死に際の不思議を面白く感じていると、途中で胸の痛みがないことに気付いた。視界は暗転したままなので、すでに死んだのだろうか。
 だがそうして自嘲しようとした俺の視界は、呆気なく甦る。
 その視界が中央に捉えるのは、他の誰でもない、神津九紀だった。
 つい先ほどまで倒れていたとは思えない、安らかな横顔。そのすぐ下に視線を向けると、切断されたはずの白い腕が伸びていた。長い黒髪と服にこびりついた大量の鮮血だけが、先ほどの光景が幻でなかったことを証明している。
 俺はその真実が信じられずに、自らの胸元に手を馳せる。そこにやはり傷はなく、切り裂かれた服と付着した血液だけが、俺に真相を述べていた。
「そうだった……おまえが負けるなんてことが信じられなくて、忘れていた」
 呟くように、俺は自嘲する。
 天空の〈射手座〉が現すケンタウルス族のケイロンは、狩猟だけに留まらず、音楽、予言、そして医学にも優れた者だったという。その〈射手座〉を司る九紀が、常識を超える治療法術を使えないほうがおかしいに決まっている。
 九紀は法術にて自らの腕を繋げた上、俺の胸まで治療してくれたのだ。
「ひとつ、借りができたな」
「いや、昼食のでチャラだよ」
「安いな、おまえの法術……」
 数秒前まで死にそうだったとは思えないほど、いつもの冴えない冗句が口をついて出てくる。勝利を確信した俺だからか、それとも九紀の無事を安堵しているからか。
 どちらにせよ、今は気分が妙によい。
「それで、だけどさ。あれ、判った?」
「お互い、伊達に一度殺されかけたわけじゃないみたいだな。トリックさえ判れば、俺ひとりで十分だ。九紀は腕の治療を続けていろ」
「了解。じゃ槙、任せた」
 拳を打ち合わせながら足を踏み出し、わずか三歩で立ち止まる俺。
 九紀が離れたのを気配で感じ取ると、両手の脇差をゆっくりと構え直す邑上を嘲るように嗤ってやった。
 そして吐き出す言葉の羅列は、まるで祝詞か、あるいは呪詛の如き余韻を残して、辺りの空気を包み込む。
「天空より墜つる十二の法のひとつを従えし、我の名は水城槙、也。我が肉体、汝の世界より君臨せし無二の魂なりて、我が精神、汝の夢より具現せし際限なき力なりて。その〈獅子座〉より降り給う汝の御心を、万物を裁く刃と化して具現させよ」
 そして、収束する法力。
 誰にも感じ取ることができない、その無限のエネルギーの流れは、激流の渦となって俺の手中に集い、形をなした。
「知ってるか? 〈獅子座〉の人喰い獅子は、鎌を持っていることを……!」
 掌に冷たい感触。邑上が二刀の脇差を具現化するのとはわけが違う、完全な法術の巨大な具現結晶の塊。
 それが質量を有して俺に担がれたときには、邑上の鋼の表情に、焦りの色が浮かんでいた。

「──獅子の大鎌」

 一閃。
 俺の身長を遥かに越える、二五〇〇ミリメートルの長い柄から伸びる新月状の刃は、俺の最大膂力で空を撫で斬っていた。
 だが虚空を切り裂いたはずの、獅子の鬣を象ったかの如き鋸上の刃には大量の鮮血がこびりつき、俺の腕にも間違いようのない手応えが残されていた。
 それは紛れもなく、ひとりの人間を切り裂いた感触。
 肉片を叩いたような鈍い音を立てて、大量の血潮が虚空から舞い上がる。ふたつに分かれて転がっていく何かの位置を音だけで辿っていると、それは、その男は、大気から滲み出るように姿を現した。
 輪切りにされた腹部から桃色の内臓を零した、細身の男の死体だ。
 〈カメレオン座〉を宿していたであろう男は、その法術を巧く利用し、気配だけでなく、姿や音や臭い、その他身体から発する様々なものを、巧妙に大気に同調させていた。そして邑上が敵の注意をひいている間に、その手にした二本の脇差で敵を斬る。まさに、最強の連携。
 だが、一撃で葬ることができなかったのが、男の敗因だ。
 あらゆる気配を消すことができる〈カメレオン座〉の法術でも、攻撃の瞬間、爆発的に膨れ上がる殺気だけは殺しきれなかったようだ。
「作戦としては、まぁ一流だったが、暗殺者としては三流以下だったな」
 俺は大鎌の血糊を振り払いながら、思いつく限りの嘲笑をしてやった。
 よもや自分たちの秘密が判るはずがない、とでも思っていたのだろうか。邑上の表情は畏怖と驚愕に歪みきり、額には大量の脂汗が滲んでいた。二刀の脇差を構えるが、隙だらけだ!
 大鎌を肩に担いだまま疾駆し、高く跳躍。その質量と落下速度を十二分に利用した一撃が、邑上の脳天に迫る。
 死に物狂いの形相で、邑上が咄嗟に脇差を掲げて防御するが、獅子の一撃は止まらない。一刀を切り裂き、二刀を砕き折り、そのまま邑上の左腕を斬り落とす。
 脳天から股下までを一気に両断するつもりだったが、この期に及んで往生際の悪い奴だ。耳を掠めながらも必至で回避した邑上は、腕を失ったことも構わず、鉄柵を越えて逃走しようと飛翔した。
 だがその身体を天空から大地へ向けて貫く、一筋の光。
 数瞬遅れて邑上の身体から鮮血が迸り、命尽き果てた法術士の身体は、遥か下方へと落下していった。
 九紀を振り返ると、彼女は呆然としつつも腕の治療を続けている。ということは、今の一撃は九紀ではない。俺に遠距離攻撃法術は存在しないため、そうなるともちろん俺でもない。
 ならば、誰だ?
 顔を見合わせた俺と九紀は、ひとつだけ思い当たる人物を思い出して空を見上げた。
 答えは、そこにある。
「よう、久しぶりだな、槙! 適度に生きてるか?」
 そこでは小型の飛行船から身を乗り出した碧い眼の男が、俺の名を叫びながら両手を振っていた。
〈ゾディアック〉所属、最高十二宮階位法術士、〈アクアーリウス〉の通称を持つ、九紀に次ぐ遠距離狙撃系法術士、〈水瓶座〉のディートリッヒ・フォン・エーデルシュタイン。どうやらこの仕事を引き受けていたのは、俺と九紀だけではなかったらしい。
 初めから俺たちは、邑上の注意を惹くための囮。飛行船〈マクベス〉の接近を容易くするためのフェイクだったのだろう。
 それに気付いた俺は、ついでにもうひとつ気付く。
 登場、遅くないか?
「悪い! この飛行船、最近どうもエンジンの調子が駄目なんだ!」
「だったら直せ! 下手したら死んでたぞ、俺とか九紀とか!」
 ゆっくりと降下してくる飛行船の造形と夕陽くらい、俺の罵声と九紀の笑いは対照的だった。



 数日後。
 東京都某区、公共の図書館の地下に密かに設けられた〈ゾディアック〉本部にて、珍しく九紀と遭遇した。
 広くも狭くもない喫茶室には珈琲の香りが仄かに漂い、隅のテーブルにはそれを裏切るが如くオレンジジュースが三つほど並んでいる。右から順に九紀、〈双子座〉の葛葉梓が並び、左端にも同じく〈双子座〉の、やはり葛葉梓。
〈双子座〉の法術により一心同体のふたりとなった、まるで日本人形のような幼さの残る少女は、元はひとりだったらしいが、今ではすっかり“双子”として馴染んでいる。原理は判らないが、どちらか片方が本物で、もう一方が法術の分身──というわけではなく、どちらも本物で、双方が死なない限り無限に双子として分身し続ける……らしいが、試したことなどないので真偽のほどは不明だ。
 ふたりの本人曰く、全てのことにおいて二倍の費用がかかって大変らしいが、しっかり仕事をしているだけ、九紀よりは断然マシだろう。
 そんな、それぞれ違った意味で不思議な三人──厳密にはふたり──は、無言でオレンジュースをストローで吸い上げつつ、俺に気付くや否や一斉に手を振った。
 ふたりの梓が同じ行動を取るのは判るが、それに九紀が混ざると、何とも滑稽というか、通り越して不気味だ。
「勤勉だね、槙」
 珈琲を片手に近づいていく俺に、九紀が皮肉とも冗句とも判別しがたい言葉をかけてくる。
 滅多に本部になど顔を出さない九紀に対し、俺も同じように皮肉ってやろうかと思ったが、隣の梓たちにも九紀を真似て勤勉を連呼され、結局タイミングを失った。
 こうなってしまえば、もう終わりだ。話題を変えるしかない。
「腕のほうは、もう完全か?」
「まぁね」
 ……会話終了。
 二の句を続けられない俺は、天上の隅でも見上げて珈琲を飲むだけだった。
 そのまま、理解しがたい雰囲気と沈黙とがひたすら続き、やがて口を開いたのは、結局俺だ。
「そういえば、九紀がこんなところにいるとは珍しいが、梓と仕事か?」
 すでに、珈琲もオレンジジュースも飲み干されていた。
 わずかな間の後、まるで煙草のようにストローを銜えるふたりの梓が、まったく同じ仕種で首を振る。
「「今日はただの暇つぶしでーす」」
 異口同音の間延びした響き。もはや一人分の声色にしか聞こえないそれは、見ていて不思議というか面白いというか……。
「「それに私じゃ、九紀さんの相棒は務まらないそーです」」
 悲しむでも怒るでもなく、納得済みで当然の事柄を延べるような口調だった。
 そういえば九紀は、自分にも相棒を選ぶ権利くらいある、と言っていたが……少なくとも梓は、俺と同等の戦闘力を持つ法術士だ。俺とは相棒を組むのに、梓と組まない理由がまったく判らない。
 俺は疑問を口にすることなく、怪訝な視線で九紀に問うと、彼女はわずかに笑って静かに呟いた。
「まぁ、そのうち判るよ」
 誤魔化したようにも思えたが、俺はなぜか納得していた。
 それとも、九紀に何を言っても無駄だと、無意識のうちに判断してしまったのだろうか。
 どちらにせよ、九紀は自分の意思を他人の言葉で変えたりはしない。それがどれほどくだらないことであろうとも、例えば疑問を答えるか答えないかということですら、問い詰めたところで九紀の返答は変わらない。
 だから俺も、それ以上は何も訊かなかった。
 いずれまた、俺と九紀が相棒を組む時がくるだろう。それが何ヵ月後、何年後になるかは判らない。だが、そのときこそ相棒は答えてくれるだろう。
 俺は長くなるだろう別れを短い挨拶で告げ、喫茶室を出る。
 そこには碧眼のディートリッヒが待ち呆けたように壁に背を預けて、欠伸を噛み殺していた。まったく会話した気はしないが、そんなに長く九紀たちと過ごしていたのだろうか。
 俺は無言で歩き出す新たな相棒に続いて廊下を歩きつ、密かに考えていた。
 俺は相棒を選ばない。仕事として任を受ければ、拒否も抵抗もすることもなく指定された人間と相棒を組み、法術士として働く。それは相手がディートリッヒだろうと梓だろうと九紀だろうと、あるいは最高十二宮階位ではない、下階級の法術士とも組むことも多い。
 それに対し九紀は、相棒を選ぶ。俺を選ぶが、梓を選ばない理由は何だ?
 その疑問の答えを探しているうちに思いがけない可能性を見つけたが、だからと言って何をするわけでも考えるわけでもなく、俺はいつも通りに仕事をこなす。仕事は拒まず、相棒は選ばず。
 だがもしかしたら、やがてそれは変わるかもしれない。そう感じていた。
 そしてその時は、きっと九紀が再び俺の相棒になったときだろう。
 図書館の正面に放置しておいたバイクに跨り、戦場に駆けるディートリッヒの後を続きながら、俺はいつ訪れるかも判らない未来を想像していた。
 いや、その必要もないと、すぐに中断する。
 九紀は〈射手座〉を宿す者。ケイロンの予言を司り、きっと未来が視えているのだろう。だから、今は何も言わないのだ。未来があることを知っているから。
 ほどなくして例の廃ビル街に突入した俺は、数年前の地震により隆起したアスファルトの坂を駆け上り、天空の星座目掛けて飛翔する。



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