運命を取りもどせ

著作者:高市清人   著作者の作品一覧へ   ホームへ


[あらすじ]
大伴旅人(たびと)と運命の女性、白石ゆきえの運命が、衝撃的なシンクロニシティによるメッセージにより27年ぶりに再び動き出した。
時空を越えたスピリチュアルメッセージの謎は、いかなる運命を導き出すのか、また解き明かされる謎は、どんな結末をもたらそうとしているのか、物語は今、始まったばかりであった。
運命を取りもどせ
第一章 プロローグ

はじまりは、中秋の名月が姿を現したある秋の夜のテレビ番組でした。

大学の医学部教授も務めたことのある米国の精神医学博士が行った催眠療法の記録
を再現したものです。
彼は、精神カウンセラーとしての治療として何のゆかりもない国籍が違う男女に退
行催眠を行い、生まれる前の記憶いわゆる過去生を語らせたのでした。

その中で博士は、偶然、二人の接点を見いだし、二人は前世を共にしてきたソウル
メイトなのではないか?が番組の内容でした。


この番組を見て大伴旅人(おおとも たびと)は、大きな衝撃を受けました。


それは27年前の記憶で、その時に起きた不可解な現象がやっと理解できたので
す。
旅人は、信仰心も無く論理的に物事を捉える現実的な考えの持ち主で、当時は過去
生やソウルメイトという言葉さえ聞いたことが無い時代でした。
もちろん心霊現象などは非科学的とさえ言われる時代だったのです。


1980年は、ジョン・レノンが狂信的なファンに殺害され身近なところでは、新
宿駅西口のバス放火事件で6人が死亡するなど、悲惨な事件が多い年でした。



当時、旅人は、一目惚れした女性、白石ゆきえと付き合っていました。
彼女とは、初めて会ったときから結ばれるのは、この人だと感じていたのです。
予想もしない神秘的な出来事が起きたのは、アメリカから来日した著名なジャズミ
ュージシャンの公演に初めてのデートで訪れた時でした。

会場は音楽ファンの間では、有名であった中野サンプラザでした。

中野サンプラザは、1973年6月開業の中野駅北口から徒歩数分の1階から4階
まで定員2222名のホールで日本はもとより海外の著名ミュージシャンが多数公
演する有名な場所でした。


施設は、歩道からすぐの階段8段を上ると広いデッキがあり、建物はその奥にそび
え立っており、正面には、ガラスドア20数枚が並んでいる入口があります。


旅人は、開演の30分ほど前に到着し、下見がてら館内をうろうろしながら、コン
サートが終わったら、どこに食事に行こうかと考えていました。

気が付くと開演時間の19時が迫っていますが、彼女がまだ来ていません。
旅人は、しきりに外に目をやりますが、外のデッキには、たくさんの人が見えるだ
けでゆきえの姿は、見えません。

調度、その時、黒髪をなびかせキャメルのロングコートを着た女性が正面玄関へ向
けて白タイル張りのデッキを歩いてくるのが見えました。

気のせいか通り過ぎる人が、まるで有名女優が歩いているかのように皆、その女性
を振り返っています。そう、彼女です。


彼女、白石ゆきえは、渋谷にある店員3名ほどのブティッテクの売り子として働いて
いました。そのブティックには、他に2件のお店があり、お店は、会社として経営
されていましたが、実態は個人商店みたいなもので就業時間を含め全ての決定は、
それぞれの店長に任されていました。


仕事は、朝8時から夜9時までで勤務は2交代制でしたが勤務時間は、あってない
ようなもので店長が承認しないと帰れないような職場でした。

その日、ゆきえは早番で17時過ぎに、仕事が終わる予定でしたが帰れるかどうか迷
っていたのです。


旅人の前に現れたゆきえは、美しい黒髪を掻き上げながら透き通るような白い肌を
際立たせながら、少し呼吸を荒くしていました。
きっと、無理に店を出てきたのか、いつも無邪気な笑顔を見せてくれる彼女に笑みが
無く、沈みがちの印象です。

開演が押し迫っていました。

旅人は、言葉をかわすのも惜しむかのようにゆきえの手を握り直ぐに中央通路へと
急ぎます。
ホールは4階までの吹き抜けで広い空間には、赤いシートの客席が鮮やかに目に焼
き付けられるようです。

客席は、開演を待ちわびる観客でほとんど埋まり、その中を旅人たちは、観客をか
き分け、やっと1階中央席へと滑り込みました。
ゆきえは、席についてほっとしたのか、やっと普段通りのこぼれんばかりの笑顔を
見せました。

『遅れてごめんなさい….』

大丈夫、まだ余裕があるから、ほら、灯りもまだ落ちていないし平気だよ。

『よかった』

二人には、多くの言葉はいりません。

ゆきえの笑顔を見ているだけで旅人は、この世の幸せを独り占めしていると感じて
いました。
席につきやっと余裕ができ、ゆきえの様子を見ようと、改めて右側に座るゆきえの
瞳を覗いた時に、それは起こりました。

ゆきえとは、つい最近、会ったばかりなのにとても懐かしい、感覚が湧き上がって
きたのです。

その時、突然、天上から言葉が降ってきました。
頭の中は、愛の言葉を巡らしています。

「君のことをずっと探していたよ」

「やっと巡り会えたね」

言葉が次々と降ってきますが、理性が言葉を発するのを押し止めました。

なおも言葉は続きます。

「愛しているよ。遠い昔から」

「そして、これからもずっと愛しているよ」

神秘的な言葉は続き、あまりの事に旅人は呆然としていました。

この衝撃的な出来事にどうしていいか分からず思わず今、起きたことをゆきえに伝
えようとしました。

だが、メッセージは終わりではありません。

「彼女は、まだ子供だよ」

しかし、その言葉には、大きな矛盾がありました。ゆきえは、旅人と同じ23歳だ
ったのです。

どういう意味だ、これは!

その場で何度も考えてみましたが、答えがあるはずもありません。
愛の言葉はいかにもロマンチックなことですが、彼女が子供であるというメッセー
ジは、どう考えても理解できません。


旅人は、この現象をこれが「運命の赤い糸」と言うのではないかと勝手に解釈しま
した。
そして、いつか機会が来た時に、これをゆきえに伝えようと思ったのです。

残念なことにこの出来事を告げる機会は、ついに訪れませんでした。

旅人は、取り返しのつかない間違いを犯しました。

愚かにも彼女の気持ちを理解できず大きな勘違いをしたまま別れてしまったのです。


あれから27年、旅人は理解不能な現象やゆきえとの様々な出来事を誰にも相談し
ませんでした。二人に起きた事は、一人、心に閉まってきたのです。

説明の付かないあの現象を、単なる錯覚であったと自分に言い聞かせるしかありま
せんでした。

だが運命は、何と残酷なのでしょう、27年経った今、答えは突然、現われました。
ソウルメイトが、時として父と娘に姿を変えることを知ったのです。

彼女こそ時の流れを越え、生まれ変わりながらも、悲しい別れを繰り返してきた最
愛の女性、魂の伴侶でした。

旅人は、輪廻転生を信じつつあります。
そうでなければ最後の「彼女は、まだ子供だよ」のメッセージの説明がつかないの
です。




[本文]
第二章 はじまり

あの日から1年が経ち旅人は、まだ同じ会社で働いています。

彼女と別れた旅人は、仕事にも挫折し、何かがおかしいと思いながらもぼんやりと過ごしていました。

昔から旅人を知る人間からすれば、だいぶ変わったように見えたことでしょう。
遊ぶ暇があれば本を読んでいた方がいいと言っている人間が、さえずりを忘れた小鳥のように会社以外では、目的もなくボーっと過ごしています。

毎日のように酒を飲み、酔っぱらっているのが日課で何かが足りないと感じながらもそれが何かが彼は気付きませんでした。

その日は、仕事を終え午後2時を少し廻った頃、歌舞伎町の広場に面した映画館オスカーに入りました。

何の映画かは、今となっては想い出せません。
映画の題名は問題ではありません、ただの暇つぶしでした。

映画館は、272席の客席数で客の入りは20名位、一目で客の入りが悪い映画館だと見えました。

旅人は、中央のスクリーンが一番よく見える位置に座り一息つきますが、まだ上映開始まで10分ほどあります。
手元には、3面記事を見るために街で買った夕刊紙があります。
その紙面の火曜日には、毎週、宝くじの当選番号が載っていました。

彼は、ゴソゴソとポケットから財布を取り出し中から宝くじを取り出しましたが、当たるはずがないと思っていました。
今まで、当たらないというおかしな信念があり、買ったことがないのです。

飛行機の墜落の確率は、飛行回数5万回に1回と言われていますが、宝くじはそうはいきません。
高額賞金の当たる確率は、飛行機が墜落する確率より低いのです。
飛行機は5万回も搭乗すれば1回は墜落してあの世の人となれる訳で、あとは何回目に落ちるかの順番だけで、運を試すルーレットのようなものです。
もちろん買わなければ確率はゼロですが


その時も、何とはなしに池袋、サンシャイン通りをサンシャインシテイへとぶらぶら歩いていました。

右手には、森永ラブというファーストフード店が見え、入口、左手を少し離れた所へ宝くじ売場が街に溶け込むかのようにありました。

あれ、こんなところに売場があったのだ、いつ出来たんだろうかと妙に気になり覗いてみたのです。
売場はおばさんが一人、中にいる造りで、街でよく見かける普通の宝くじ売場でした。
そこで、何とはなしに生まれて初めて宝くじを買ったのです。

売っていたのは、10枚、千円の東京都宝くじで、おばさんは、3つの袋に入れられたくじを、さも神経衰弱のトランプのように差し出します。

旅人は、その左端を選択しました。「当たりますように」おばさんのお祈りが聞けました。

気まぐれとしかいえない、生まれて初めての宝くじの購入です。


夕刊紙をのぞき込みながら紙面の左にある当選番号を照らし合わせます。
どうせ、こんなもの当たるはずがないと思い、1000円、回収出来たらいいかなと思っていました。

1等、1000万円は、どうだろうかと見ますと外れでした。
2等、500万円は、どうかと数字を一桁ずつ合わせて行きますと目が止まりました。

目が点になるというのはこういうことを言うのでしょう。
目が点なるとともに、同時に我が目を疑いました。
新聞に書いてある同じ番号のくじが手元にあるのを発見したのです。

気が動転し、頭の中は、ぐるぐる廻る有様です。

突然、誰かに気づかれているのではと思い周りをきょろきょろしてみました。
それでも安心できず、新聞をあわててたたみ、まるでウサギが逃げ出すようにトイレへ駆け込みます。

目指すは、誰も入って来ない個室で鍵をかけ、もう一度、新聞を拡げ番号を見てみました。
やはり新聞に載っている番号と同じ番号のくじが手元にあります。

どうやらこれは、新聞社の印刷ミスでもなさそうで、間違いではないようです。


「当たった」とさすがに大きな声は、出せず、思わずラッキー!と胸の内で声にはならない叫び声を上げました。

冷静になろうと努め、旅人は、席に戻りました。
映画は、まだ始まったばかりですが、スクリーンを見ながらも映画は目に入らず記憶にも残りません。

頭の中では、これからどうしょうと、そればかり考えていましたが、この喜びを誰かと一緒に分かち合いたいという思いがこみ上げてきました。

無意識に住所録を取り出し一生懸命探している自分がいます。
探しているのは、白石ゆきえの連絡先でした。

この行動は、矛盾した行動でした。
彼女の連絡先は、書いてあるはずがないのです。彼女は、勤め先を去り住所も移転しました。
連絡先すら知りません。

旅人は、驚き、ふと我に返りました。
俺は、何をやっているのだろう、何と未練がましいのだろうと自分を戒めました。

運命は、間違った選択をした旅人に外れてしまった軌道を修正しろとばかりに迫ってきました。

でも、旅人は、そのチャンスに気が付きもしませんでした。
これが物語のはじまりであることも知らずに



[本文]
第三章 出会い

彼女は、旅人が働いている同じ建物で働いていました。

テナントとして入っていたブティックに働き始めたばかりで旅人が出会った時は、すでに1ヶ月はたっていたようです。

旅人は、毎日、制服に着替えて仕事をしています。

着替えのためには、いつもロッカー室を利用していましたがそこへ行くには、テナント街を通らなければ行けません。
建物内に働く従業員は、必ずそこを通りましたから二人の出会いは、ある意味、当然の成り行きでした。

初めて会ったのは、午後からの出勤に備え着替えをするためロッカーへ向かう時でした。
店の外を見ていた彼女と偶然、目と目が合いました。
互いを見ていたのは、ほんの5秒くらいでしたが、二人の魂は、時空を越えた悠久の流れの中で再び巡り逢ったかのようでした。

旅人は、直ぐに判りました。
彼女とは結ばれる運命だと、こんな気持ちは、生まれて初めてのことでした。
それから、旅人は、毎日どうしたら彼女と親しくなれるだろうかとそればかり考えていました。

幸い、旅人は、建物の公共部分の管理者の一人で施設の見回りが仕事の一部でした。
時には、各テナントの責任者とちょっとした雑談をするのも仕事の一部でした。
何かあった時に、円滑なコミュニケーションを図ることを目的としていましたがそれが思わぬ役に立ちました。

彼女の上司である店長、伊藤和恵とも今まで以上に言葉をかわすようになりました。

伊藤和恵は、32歳、独身で身長160cmほどの女盛りを感じさせる肉感的な女性でした。
会う度に、何げない雑談をしていく旅人に彼女は、旅人が自分に気があるのではと勘違いしていたかもしれません。

何とかブティックに近づくことはできるようにはなりましたが、次はどうやってゆきえと親密になれるかでした。

ある時、旅人は制服の着用に義務づけられている黒いソックスを忘れたことがありました。
当時は、コンビニエンスストアがまだ無い時代で靴下は、スーパーマーケットかデパートで買うのが当たり前で忘れてしまうと、会社の近所で手に入れるのは簡単ではありません。

いつもカジュアルウェアで出勤していた旅人は、色物のソックスを履いたのでそれをそのまま履けずに困っていました。

そんな時、ふと伊藤和恵の店に電話してみる気になったのです。

店長、黒のビジネスソックスは売っている?
「あるわよ」

ラッキー!
「下着でも何でも売っているわよ」

すぐ、行きます

ブティックでは、旅行客を相手にしていたこともあり下着などの必要なものは大体、売っていたのです。

旅人の仕事は、月に22日ほどでしたが、ほぼ週に1、2回は靴下を忘れていました。
本当に忘れたことも、もちろんありましたが他は、全て意図的に演出したもの親しくなれる機会は、確実に巡ってきました。

「今日も忘れたのですか?」

そう、慌てて出てきたからさあ、忘れちゃったよ。

500円のビジネスソックスは、安い買い物ではありませんでしたが親しくなれる機会は買えたようです。
そんなやり取りが2ヶ月も続き、ゆきえとは簡単な会話が出来る仲になりました。

その年は、記録的な猛暑の年で熱帯夜が歴代最多を記録した年でしたが、その日は忍び寄る秋の気配を感じさせる涼風が吹いていました。

旅人は、ビルや電信柱の陰に隠れながら彼女が現われるのを今やおそしと待っていました。
知らない人から見れば探偵が誰かを見張っているとでも見えたことでしょう。

彼女が退社するのは5時で、時間を見計らい、駅までの帰り道を待つことにしました。

社内で声をかけるのは難しいのと、誰にも知られたくないという気持ちが、偶然を装い、一緒にお茶でも飲みませんかと誘うことを考えたのです。


遅くなるのはある程度、分かっていましたが、定時を30分過ぎても、彼女は中々現われず、やきもきしていました。
午後5時30分を廻った頃、やっと、彼女がこちらへ向かって歩いてくるのが見えました。

あれ! 今、帰り? 偶然だね。もし時間があればお茶でも飲まない?

「いいわよ、今日は習い事まで時間があるから」

彼女の答えは、予想を超えるものでした。
まるで待っているのを知っているかのようで、すぐに返事をしてくれました。

どこでお茶飲もうか?

「行きつけのジャズ喫茶があるからそこへ行かない?」

「習い事にもすぐ行けるから」

「いいよ」

旅人のもくろみは、見事に成功しました。

店は、DUGといい新宿駅東口から徒歩5分ほどの位置にあり歌舞伎町とは目と鼻の先でした。

その店は、一度入りたいと思っていた店で、それがゆきえの行きつけだったのは奇遇でした。

ジャズは、尊敬する先輩がライブハウスへよく連れて行ってくれたこともあり、いつもお酒を飲みながら聞くのが当たり前でした。
酒場でばかり聞いていたせいか、夕方の喫茶店は、長髪の若者やいかにも芸術家然とした男女がいて、いつも感じることのない新鮮な雰囲気が漂っています。

向かい合わせの席に座りコーヒーを飲むゆきえは、大人の雰囲気を持つ魅力的な女性で、旅人は、彼女の瞳にたくさんの輝く星があるのを見つけました。

二人は、時間が許す限りお互いの色々な話をしましたが、旅人は緊張していたのか自分が話した内容はよく覚えていません。
でも、ゆきえの話すことだけは表情、匂い、声と彼女のすべてを記憶していました。

ゆきえのお父さんがお医者さんであることやお互いジャズが好きなことそしてお姉さんが近いうちに結婚するので今は、一人暮らしになったこと。

スペイン旅行をした時にフラメンコを見て虜になり今日は、フラメンコの教室に行くこと。

そしてA級ライセンスを持つほどの車マニアで愛車はセリカであることも分かりました。

その中で彼女は、「アンダルシアの綺麗な花畑を貴方に見せて上げたい」といかにも一緒に行こうと誘っているかのような話しをしてくれました。

楽しい語らいのひと時は、あっという間に過ぎていきます。
語り合った旅人は、彼女が美しいだけでなく活動的な面も持ち併せている想像以上に素晴らしい女性であることを改めて理解できました。
別れの時間は、すぐにやってきます。

「じゃ!また」

別れがたい、ゆきえの後ろ姿を見つめる旅人は、不思議な感覚に酔っています。

舞い上がっていた旅人は、大事なことを聞くのを忘れていました。
電話番号です。
今と違い当時は、携帯電話など存在しません固定電話の番号は、極めて重要でした。
会社で個人的に話すことはとても難しく、にもかかわらず訊くのを忘れてしまったのです。

遅過ぎました。

もう、ゆきえは、行ってしまい、どうしようかと考えてみました。
他に方法がないものかどうか?

旅人は、第六感が鋭い方で、会話の中のキーワードからゆきえの住所を推測してみました。
答えは、数日後の夜、ゆきえが受話器に出たことで正解だと分かりました。

「よく、分かったわね」

ゆきえは、旅人の感の良さに感心します。

突然の電話にも関わらず色々な話をしたのは言うまでもありません。

当時、旅人は、埼玉県所沢市に一人暮らしていましたが通勤時間も電話をかける時間もとても貴重でした。

二人の交際は、周囲の誰にも気づかれることなく順調に始まったはずでした。

ゆきえは、遅番もあり旅人も遅番、夜勤があり二人のスケジュールを合わせるのは至難の業でした。

旅人のスケジュールは、1ヶ月間決められていましたがある程度しか調整が利きません。
ゆきえは、新人でしたからよほどの事がない限り希望を出せない状況で休みも週1日しかないのです。
早番の時は、夕方からフラメンコのレッスンが入っていましたから二人が会うには、互いに多くの努力が必要でした。


2度目もレッスンへ行く前に1時間ほどお茶を飲む時間があるだけでしたが一緒に取りとめのない話をすることがとても大事でした。

その時、旅人は、夜勤明けであったことからあくびをしてしまいました。
それを見ていた彼女は

「今、あくびをしたでしょう?」

う、うん

「あくびなんかして」

「100年の恋も冷めちゃうって言うのを知っている?」

ああ そう言うね

それを聞いた旅人は、うまいことを言うなと思う反面、それって告白?
なんて心の中で呟いていました。

彼女は、旅人と一緒に過ごす時間がとても貴重であることを知っていたのでしょう。

この日の主な話題は、お姉さんの結婚式でした。

「姉さんの結婚式の話、聞いたよね?」

聞いたよ、いつだっけ?

「○月○日だけど」

「ねえ、2次会に来てくれない? 」

え! 全然知らない人ばかりで僕が行っても大丈夫?

「姉さんの友達もたくさん来るから大丈夫よ、来て」

お姉さんの結婚相手は、名門大学出身で、サッカー世界選抜にも選出された写真週刊誌に狙われているほどのスーパースターです。

この話を聞いた時、凡人のサラリーマンであった旅人は、驚きました。
あの有名人と結婚する、お姉さんが!

旅人は、知り合ってまだお姉さんにも両親にも会ったことがありませんでした。
お姉さんの結婚式の2次会に出てくれなんて、最初はからかわれているのかなと思いました。

でも、彼女の目を見ると真剣でした。

その目を見た旅人は、彼女が望むことなら何でもしてあげようという気持ちになりました

いいよ

「ありがとう」

ゆきえは、飛び切りの笑顔を見せました。

旅人は、約束したのです。
結婚式、当日、旅人は急に弱気になりました。

ゆきえ以外、全然知らない人が集まる華やかな所に行きお姉さん、ご主人とその友達と何を話したらいいのか全然、自信がありませんでした。
自分は、ただの異邦人じゃないかと考えたりします。

もっと気軽に考えれば良かったのでしょうが旅人は、迷ったあげく、ゆきえとの約束を破ってしまったのです。




[本文]
第四章 雪国

旅人(たびと)は、18歳からたくさんの女性に好きですと告白され、付き合って欲しいと言われる青年でした。

多くの若者からみれば羨ましいような話です。
旅人は、それが恵まれていることだなんて考えもしません。
そんな事は、旅人からみれば普通のことでした。
その証拠に誰に告白されてもそれを他人に自慢したり教えるなど考えたこともありません。
彼は、何事にも一生懸命で時おり見せる翳りのある表情を除くと、どこにでも居る普通の18歳の青年でした。
或いは、この翳りが女性の母性本能をくすぐっていたのかもしれません。


最初に告白されたのは、専門学校、18歳の研修生で色白のぽっちゃりとした笑顔がとても可愛い娘でした。
彼女が嫌いだったわけではありません。でも「君には、僕は相応しくない」と言って断りました。
この子は、その後、貨客船の乗務員になりました。

蛯原晶子とは彼女が24歳の時に出会いました。
会う度ごとに、旅人へ考えられる褒め言葉を順に言ってくれるような知的な女性でした。
東京出身で都会のセンスが溢れ、大きな目とグラマラスな容姿がひときわ目立つ魅力的な女性で彼からみればとても大人に見える女性です。
最初は、誘われても冗談だと思いましたがそれが本心だと知ったのは1年も経った頃です。
彼女が東京へ帰ると言うことで個人的に送別会をしようという話になり二人で行くことになりました。

旅人は、彼女の気持ちも考えず友達の一人を誘いました。
飲んだり食べたりと楽しく過ごし、友達もそれなりに話をしていましたがディスコへ繰り出し、彼女とチークダンスを踊り始めたら、なぜか同僚はいなくなっていました。
邪魔者だと気付いたのでしょう。
密着している彼女の服の上からもその温もりは伝わり、普段は、おしゃべりな彼女が無言でした。
きっと言葉は、もう、いらなかったのでしょう。
彼女は、もう崩れかかり彼も壊れかかっていたようで告白するチャンスでした。
受け止めてくれるのは彼女くらいしか考えられません。
でも、重大なことだと気が付かなかったのです。
彼女は、東京へ旅立ってしまいました。

パート先には、3年間一緒に働いた18歳の佐藤貴子がいました。
旅人が働くようになった時、最初に好意を持ってくれた子で会ったその日から、彼女の好意は、痛いほど感じていました。

会う度に、照れ隠しの言葉で装いながらも彼の瞳を覗き込んでいました。
彼女は、美しい黒髪と大きな黒い瞳を持ち、すらりとした体型は羨望の的です。
周りの女性から見ても魅力的で、チャンスがあればどんな男性でも喜んで受け入れたでしょう。

旅人は、旅立ちを決意しました。
ささやかな夢を東京で叶えてみたくなったのです。
東京での就職が決まった頃、佐藤貴子は、結婚が決まり退社していました。
相手は、会社に出入りしていた長身、色黒の年上男性で彼女は、熱烈に求愛されたということでした。

忘れられないのは、佐藤貴子ら同僚であった女性達が個人的に送別会を開いてくれた時のことです。
送別会は、居酒屋で4人の同僚達が催してくれビール、ウィスキーなどたくさんのお酒が用意され、楽しいひと時を過ごしていました。
参加していた佐藤貴子の様子がおかしくなったのは宴が終わる頃で、気が付くと泣き始めています。
最初は、単なる別れが悲しくて泣いていると思いましたがそうでないと分かったのは、旅人の前で泣き出し始めたからです。
同僚の女性が彼女を慰めていましたがいつまでも彼女は、泣いています。
愛おしくて彼女を抱きしめて上げようと衝動に駆られましたが彼の理性がそれを許しませんでした。

彼女達と付き合うことを想像しなかった訳ではありません。
何かが足りず、自分に正直になれなかったのです。

旅人は、感受性が豊であったがために誰よりも傷つきやすい青年でした
つらい過去を無意識に閉じ込めてきたことにより自分を守ってきましたが、その代償は高いものでした。自らのあらゆる感情すら閉じこめてしまったのです。


著作者:高市清人   著作者の作品一覧へ   ホームへ
作品の著作権は著作者にあります。無断転載は厳禁です。



  
ホーム>オンライン小説,ネット小説,ウェブ小説,総合の投稿小説空間へ