タンデムシートは指定席

著作者:北野一機   著作者の作品一覧へ   ホームへ


[あらすじ]
部活を引退した秋、校舎裏の丘の上で美しい女子生徒マリから突然声をかけられる。ひょんなことからオートバイでタンデムツーリングをするようにもなり、やがて恋に落ちていく。大学生になっても2人の思いは変わらず、将来を誓い合うような仲になるが・・・
切ない純愛物語。時を超え、ここまで一途に1人の女性を愛し続けられるのだろうか?衝撃の結末が・・・
タンデムシートは指定席
 部活を引退した秋、俺は急に手持ちぶさたになった。いつまでも柔道場に顔を出しても後輩から煙たがられるだけだし。
 放課後、校舎の裏手にある丘の草の上に腰を下ろし、ただ黙然と夕陽を見つめていることがたびたびあった。ここは人がこないし、校舎を染める洛陽がドラマチックなムードを醸し出す。自分だけのお気に入りスポットだった。
 そんなある日、
「あなた柔道部のキタノくんでしょ」
 背後から突然話しかけられた。
 驚いて振り向くと、同じ学校の制服を着た女子生徒が立っている。
「あなたが、この丘を登っていく姿を見てついて来たの」
 隣のクラスの子だ。名前は確か”マリ”。学年トップの優秀な生徒である。目がきつめだが、色白で整った顔立ちをしており、男子からはかなり人気があった。また男遊びも派手だという噂もある。
「こんなところでなにをしているの」
『いや、ただ、ここは夕陽が綺麗だから』
「それだけ?わたしはあなたがタバコを吸いに来てるんだとばっかり思ってたわ」
『まさか』
 俺は笑った。正直、中学高校と6年間、部活ばかりで、こんな場面で女性とふたりきりで話す機会など皆無だった。そして、なぜか緊張のあまり動悸が激しく高鳴った記憶がある。
『じゃあ・・・』
 この日はこれ以上は会話が続かず、俺は逃げるように丘を降り、帰路に着いた。

 数日後、俺はやはり丘の上から校舎を見渡していた。
「やっぱり、居たのね」
 マリの声だ。俺は心のどこかでこんなシーンを期待していたという事実は否定できない。
『マリさんか』
「マリでいいわよ」
 彼女も夕陽に照りかえる校舎を眺めながら呟いた。
「キタノくんって、将来のこととか決めてるの」
『いや、なにも決めてない。一応、大学には進学するつもりだ』
「へえ〜そうなんだ」
 マリは屈託のない笑顔を浮かべた。
『そういうきみは」
「わたし?わたしはねえ、笑わないでよ」
 急に真面目な顔で呟く。
「女医。医者になりたいの。病気で悩んでいる人や困っている人を助けたいの」
 まるで、自分自身に言い聞かせるような、きっぱりとした口調だった。
「そのために懸命に勉強してきたんだし」
 見た目が綺麗?なんとなく情が冷たそうで、そのくせ華やかな印象から男遊びが派手という根も葉もない噂が先行していたようだ。そして優秀なマリなら、きっと腕ききの医者になれるような気もした。
「キタノくん。あなたは何曜日にここに居るの?」
 特に決めていたわけじゃない。なんとなく気が向いた日に居るだけなんだが、彼女に確実に会いたい一心から金曜日の放課後だと答えてしまった。
 あたりが薄暗くなる頃、ようやく丘を降り、マリと別れた。
 密会?
 というほど大袈裟なものじゃないが、その後も俺は週に一度は丘の上でマリと会い、たわいもない会話を楽しんでいた。
「わたしの両親は山が好きで、連れて行かれるうちにハマったわ。これがわたしの唯一の趣味かな。キタノくんの趣味は」
『読書かな』
「キタノくんってさあ、文学青年だったの」
 マリは吹き出していた。
「だって、あなたもろ体育会系じゃない」
『ひでえな。俺は歴史小説やミステリー系が好きで毎日読んでるよ。それに図書室の本もほとんど読破してるぜ」
「人は見かけによらないものね」
 彼女はまだ笑ったままだ。
『バイクにだって乗っているよ』
 馬鹿にされたようで、ムッとした俺は、なにか反撃したい気分になった。そして誰にもいってない事実を告げてしまった。まあ、当時は、免許を取ったから処分されるという規定もなかった時代だが。
「うそ〜バイクぅ」
 マリは仰天していた。

 裏磐梯は紅葉には少し早い。だが秋の行楽シーズンには違いはなかった。
 俺はマリを後ろに乗せ、タンデムで2時間ほど快走する。雲ひとつない晴天で日差しがとても眩しかった。
 実は先日、マリにバイクの話をした後、ツーリングに連れていってとせがまれ、断りきれなくなった・・・というよりマリなら連れていってもいいかと場の雰囲気で了承してしまったのだ。
 やがて五色沼のパーキングでマシンを停めた。
「気持ちよかった。わたしバイクに乗せてもらったの初めてなの。本当にさっぱりしたわ。キタノくんありがとう」
『いや、たいしたことはしてないよ』
「わたしね、一度でいいから好きな人のバイクの後ろに乗せてもらい綺麗な湖に連れていってもらうのが夢だったの」
 マリは息をはずませながら、そう言った。
『つうことは俺が好きな人になるわけか?』
 思わず口にすると
「なんか照れくさいわ。今、言わなきゃダメ?」
 にこにことしながら呟いた。
「ところで、このバイク、CBX400Fっていうのね」
 サイドカバーにシールが貼られている。
『そう、ホンダの人気車種だよ』
「赤と白のカラーリングがとても素敵だわ」
『ああ、でも俺には少し派手かな』
「そんなことないよ。キタノくんによく似合っているよ」
 五色沼も美しい水面が輝いていた。
「凄く綺麗な湖ね。あっ、湖じゃなくて沼か。この水の色って琥珀色っていうの」
 痛く感動している様子だ。
「あの、これ食べて。お口に合うかちょっと心配だけど早起きして作ってみたの」
 ベンチに座るとマリがサンドイッチを勧めてくれた。
 遠慮なくいただくと、卵やツナ、ハム野菜など実にバラエティにとんでいて美味しかった。
『ところでさあ。マリって医学部狙ってるんだよな。歳を越せば入試が始まるよ。こんなことしていて大丈夫なの』
「その言葉そっくりあなたに返すわ。わたしは毎日、こつこつと受験勉強してるけど、あなたこそ平気なの」
『いや、それがその・・・』
 俺は私立文系志望なので入試課目は英・国、選択は磐石の自信のある日本史だ。苦手な理数系の課目がない。つまりそれほど切羽詰った状況ではないと自分では安易に考えていた。
「今夜から、しっかり勉強することね」
 マリは吹き出しながら呟いていた。
 その刹那・・・
 マリは咳き込んでしまう。
『大丈夫か』
「え、ええ。笑ったら気管まで直接空気が入っちゃったみたい。でも本当に大丈夫よ。これでも登山で鍛えてきたんだし」
『でも、もうそろそろ帰ろう』
「もう帰るの。つまんない」
 不承不承マリはマシンに乗り、俺の腰へ手をまわした。
 2時間ほどのローリングの旅を終え、地元の街へ戻った。そして指示通りに動くとマリの自宅前に辿り着く。
「ちょっと寄っていかない」
『いや、遠慮しておくよ』
「家には母が居るけど気にしないで」
 ほとんど言われるままにマリの家の玄関まで来てしまった。
 マリの家はこじんまりとした新築の一軒家だがモダンなセンスが漂っていた。表札にはローマ字で「MIZOGUCHI」と記されている。
「ただいま」
 ドアが開くとマリの母親と思われる女性が立っていた。毅然としてよくマリに似た酷く美しい上品な人だ。でも反面笑顔が似合い目元がとても優しそうなおばさんという印象である。
「キタノくんよ」
「まあ、あなたがキタノさん。マリからお話しはよく訊いてますよ。ようこそ。娘がお世話になっているんですって。どうぞお上がりください」
『初めまして。こちらこそお世話になっています』
 俺は、すっかり恐縮してしまった。
 マリの部屋に通された。もちろん俺は女性の部屋に入ったこともないのだが、実に小奇麗に整理されていた。壁にはかつて踏破してきた山々の山頂での額入りの写真などが飾られている。本棚にはヘッセやミッチェルの文学集が並び、その横には医学部志望の彼女らしく専門的な医学の本も立っていた。
『やっぱり体の具合が悪いのか』
 小さなテーブルの上には、なぜか薬袋が置かれていた。
「ううん、そんなことないよ」
 マリは慌てて薬袋を机の引出しにしまった。
「恥ずかしいから、あんまりジロジロ見ないで」
 ふとマリの姿が写る時計台の写真が目に留まった。
『これ、札幌の時計台だよな』
「行ったことあるの」
『いや、ないけどテレビで観たことがある』
 やや間があり・・・
「実はね。わたし中学まで札幌に住んでたの。父の仕事の関係でね」
『へえ〜北海道か。一度はツーリングしてみたいもんだな』
 なんて呟いていると・・・
「こんなものしかなくて、ごめんなさいね」
 マリの母が紅茶とクッキーを運んできた。
「マリは一人娘なもので、すっかり甘やかして育ててしまいましたの。我がままを言ってキタノさんにご迷惑をおかけしてないかしら」
『そんなこと・・・俺の方が迷惑をかけているかも知れません』
「いえいえ、ただマリが学校のお友達を連れてくるなんて正直、嬉しいのです。転校もさせてしまい、ますます・・・」
「もういいから、おかあさんは戻って」
 マリの母親は、はいはいと言いながら立ち去った。
 その後もたわいのない会話をし、俺はこの場を辞すことにした。
「キタノくん、また遠慮しないで遊びに来てね」
 マリは無邪気な顔で話しかけてきた。
「キタノさん、今日は本当にありがとうございました。これからもマリと仲良くしてやってくださいね」
 おばさんが驚くほど真摯な表情で俺になにかを訴えかけているような気がしてならなかった。
 妙に不自然な印象が俺の脳裏を過ぎる。

「よっ、色男」
 登校中に後ろから声をかけられた。同じ部活のヨシバだった。
「おまえさあ、ナンバーワンとつき合ってんだって」
『なんだよ、そのナンバーワンって』
「学校ナンバーワンの美女ミゾグチマリだよ。このとぼけちゃって。才色兼備だけど、あんな近寄り難いほど綺麗な人のハートをどうやって射止めたんだ」
『つき合っているというか、なんというか』
 俺は言葉を詰まらせた。
「柔道部員は昔から女にもてないはずなのに。しかし、硬派キタノも隅に置けないなあ」
 ヨシバは豪快に笑っていた。
「それにな、いろいろ噂があったけど彼氏とかいなかったのか」
『噂を信じちゃいけないよ・・・っていう曲が昔あったろ。いたって地味な人だよ』
「へ〜事実は小説より奇なりっていうやつか」
『ヨシバもたまには文学的な表現をするんだな』
 ヨシバは俺の背中をパンと叩き、にやりと笑いながら校舎へ向かって走りだした。
 マリとは、その後も金曜日には丘の上で会い、たまにタンデムで近場を走っていたが、やがて12月に入り、寒さが増してきた。バイクはオフの時期だ。丘の上での逢瀬も限界になりつつある。そこで、週に一度、土曜の午後、駅前の喫茶店で待ち合わせをするようになった。
 喫茶店の名は「黒珈琲」だ。気さくなママさんがひとりで切り盛りしていた。俺は昨年から、友人と部活が休みの日などに訪れコーヒーを飲みながらダベっていた店だ。
「あらあら、キタノさん、いらっしゃい。久しぶりね」
 ママさんは相変わらずだ。
 コーヒーを飲みながら暫し待つ。有線からはクリスマス関係の曲が盛んに流れている。木目のついたテーブルが渋い光沢を放っていた。
 やがてカランカランという入口のドアの鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい」
 ママさんが条件反射で叫ぶ。
 大袈裟な表現のようだが、店内に一瞬、たくさんの花が咲いたような強烈なオーラが漂い、他の客たちの視線がいっせいに入口付近のマリの姿に殺到した。
「ごめんなさい。待った」
 マリは、はあはあと息をあげていた。
『いや、それほどでもないよ。コーヒー、ブレンドでいいよね』
「ええ」
「いらっしゃい。この頃、キタノさん、ちっともこないと思っていたら、こんなに綺麗な彼女ができたのね。奥手だとばかり思って、すっかり油断してたわ」
 マリは頬を真っ赤に染めてうつむいてしまった。
「あっ、お邪魔でしたね。退散、退散」
 にやにやしながらママさんはカウンターへ入った。
「ねえ、クリスマスイブってなにをしてるの」
 運ばれてきたコーヒーを一口飲み終え、マリは呟いた。
『俺はクリスチャンでもないし特にすることもないね』
 ちなみに子供の頃に通っていた幼稚園が教会だった。俺は園長の牧師夫妻に酷く可愛がられたせいか、小学校高学年ぐらいまでは日曜の礼拝には欠かさず教会に行っていた。その後、牧師夫妻が渡米し、自然に足が遠退いてしまった。
「じゃあ、イブの日の放課後、会ってもらえる」
 マリは目を輝かせた。
『終業式の日だな。わかった。この店で待ってる』
「本当、嬉しいわ。今日は、これからちょっと用事があるから、お先に帰るね」
 マリは軽く手を振りながら店を出て行った。
「ありゃ本当にびっくりするぐらい美人だわ。ライバルがどんどん出てきそう。そんな恋人からクリスマスイブのお誘いね。見せつけてくれるねえ」
 ママさんが、コップに水を注ぎながら笑っている。
「キタノさん、あんたプレゼントぐらいは用意しないとね。向こうも今ごろ、買い物をしてるんじゃないかね」
『ママさん、どんなものをプレゼントしたらいいんですか』
 俺は生まれてから一度も女性に物を贈ったことなどない。
「困った人だね、あんたも。まあ、コーヒーカップとかブローチとかが無難かな」
 俺が店を出てすぐにプレゼント用にコーヒーカップを購入したのはいうまでもない。この頃から主体性がなかったと思われる。

 クリスマスイブに合わせたかのように寒波がやってきた。朝から断続的に雪が降っており、街全体がすっぽりと白い絨毯に覆われてしまった。
 放課後、歩きづらい道を何度も転びそうになりながらも黒珈琲へ辿り着いた。服についた雪を払いドアを開けると
「いらっしゃい。彼女、もう来てるよ」
 ママさんが笑いながらマリの方を見た。
『大丈夫だったのか。こんな雪道なのに随分早いんだね』
「ええ、わたしは冬山の登山もするからぜんぜん平気よ。年末年始もね、家族でアルプスの山荘に泊りがけで出かけるの。父は元旦のご来光を見るんだって張りきっちゃって」
 マリは吹き出していた。
「あっ、そうそう。これクリスマスプレゼント」
『ありがとう』
「開けてみて」
 包装紙を開くとバンダナが出てきた。しっかりとした生地だ。多分、アウトドア用で高価なものではないだろうか。
「バイクに乗せてもらったとき、襟元から風が入ってきて寒いと思ったことがあったの。本当は手編みのマフラーにしたかったんだけど、受験生で時間がないし。それにキタノくんには、こっちの方が実用的で長く使ってもらえそうな気がして」
『ありがたく使わせてもらうよ』
「本当!嬉しい」
 にこにこしながら、マリはコーヒーに口をつけた。
『これぇ、たいしたもんじゃないけど俺からだ』
「え、わたしに。ありがとう。開けていい」
 マリが箱を開け、トッテに仔猫の飾りがついたコーヒーカップを取り出した。
「まあ、カワイイ。もちろん愛用させていただくわ」
 俺の贈り物は、かなり安っぽいカップだが喜んでもらえて安堵した。
「わたしね、本当はね、キタノくんって近寄り難かったの。いつもひとりで怖い顔をして歩いているでしょ」
『俺、そんなに怖い顔をしてるか』
「今は少しも思わないけどね。実は6月の柔道の大会を観てどうしてもお話ししてみたくなって」
 6月の大会は、うちの学校の体育館で開催された。個人戦は3回戦で負けたし、団体戦もいきなり強豪校と対戦するハメになり結局敗退した。
「団体戦の5人目にキタノくんが出場したでしょう」
 あの団体戦は5人中4人があっけなく敗れて、もう結果は決まっていた。でも俺にとって高校最後の試合なので悔いのない戦いをしたいと思った。
 相手は新人戦の県重量級チャンピョンのヒライという男だった。色白で巨大な体格を持つことから「白い壁」とか「人間山脈」という異名があり、他校の柔道部員から恐れられていた。体重差は俺のざっと2倍。技も力もはるかに俺を凌駕していた。
 試合開始早々から、何回も吹き飛ばされて有効のポイントが次々と加算されていった。
「それでもキタノくんは、幾度となく相手に挑みかかっていったでしょ。なんだか猛烈に感動しちゃって。世界中を敵にまわしながら、たったひとりで戦う孤独なサムライの姿が彷彿したわ」
 実際に戦っている俺は無我夢中だった。ヒライはなかなか俺を一本で仕留められず焦ってきたようだ。そして圧倒的なパワーにものをいわせた強引な背負い投げを仕掛けてきた。俺は間一髪、踏みとどまったつもりだったが、これはヒライのワナだった。直後に真後ろに返されてしまう。俺は背中をつき技ありをとられた。
 だが、ここで俺にとっての千載一遇の勝機が見えた。背後には倒れたが、ヒライの大きな背中から襟元をがっちりと捕らえたのである。足は胴に確実に絡ませた。いかにヒライといえどもこの完璧な送り襟締めの体勢を外せるわけなどない。ヒライは懸命にもがいたがやがてぐったりとして動かなくなった。つまり失神したのだ。落ちるまでギブアップしなかったヒライの敢闘精神はやはり流石だと思った。
 主審から一本勝ちを宣告されると見物に来ていた同じ学校の生徒たちから溢れんばかりの大喝采が湧きあがった。まさに奇跡の逆転劇である。
「キタノ、見直したぞ。まるで巨鯨に立ち向かうシャチのようだった。よくやった」
 自分のクラスの生徒にまったく興味を示さない典型的なサラリーマン教師のカキザワという担任が、後刻、顔をくしゃくしゃにしながら珍しく俺を誉めた。
「どんなに厳しい状況でも最後まで諦めないで戦い続けて強敵を制したあなたの姿。わたし、それを見ていて涙が止まらなくなったわ。実はキタノくんの隠れファンも多いのよ」
『いや、それほどたいしたことでもないよ。結局、3年間一度も入賞できなかったんだし』
 そんな話をしているうちに時間が刻々と経過していく。
「あんたたち、そろそろ引き上げたほうがいいよ。雪がどんどん激しくなってきたから、もしかしたら電車が不通になる気がするの」
 ママさんは、外の様子を心配そうに眺めていた。
 そしてプツン・・・
 停電だ。これは電車が確実に停まっているだろう。
「とりあえず駅に行ってみます」
 ママさんに告げ、マリを連れて駅に向かった。街がとても暗い。雪も容赦なく視線を妨げた。
 非常用の灯は点いているが駅も大混乱していた。やはり電車がストップしてしまい行き場なのなくなった人たちが右往左往している状況だ。
 そんな中、マリが急にしゃがみこんでしまった。
『どうした?』
「ちょっと気分が悪くなって」
 酷く顔色が悪いし、とても苦しそうだ。
『歩けるか。無理なら俺にオンブしろ』
「で、でも恥ずかしいわ」
『恥ずかしがっている場合か』
 俺はマリを背負いながら、とりあえず待合室に向かった。
 どうすればいいんだ。

「キタノくん」
『なんだ』
「あなたの背中って大きいね。男の人の匂いがする」
『すまん、暫くクリーニングに出してなかったんだ』
「ううん、違うの。わたしの好きな匂い」
 待合室に着くと僅かな空席を見つけ、マリを座らせた。
「大丈夫、こうやって休んでいるとじきに少しは楽になってくるの」
 タクシーターミナルには長蛇の列が出来ていたし、最悪の場合は救急車を呼ぼうとまで考えたが、なんとかなりそうだ。しかし、電車が不通では帰るに帰れない。
「今夜はおとうさん、いえ父の仕事が早番で帰宅していると思うの。電話をして迎えにきてもらうわ」
 マリの父親には会ったことがない。なんだか叱られそうな気がしたが、マリの話しではとても優しい人らしい。
『公衆電話までオンブするか?』
「もう大丈夫。肩だけ貸してもらっていい」
 マリは俺の方につかまりながら、ゆっくりと歩いた。公衆電話も行列になっていたが、前にならんでいたおばさんが、
「どうしたの、気分でも悪いの」
 俺の肩につかまって、ようやく立っているマリの尋常ではない様子に気づいた。そして具合の悪い人がいるから電話を優先させてと機転を利かせ、すぐにマリの自宅に連絡がとれた。
 待合室でマリの父親の迎えを暫く待つ。
「キタノくんて、詰襟の学生服がよく似合うね。この姿が卒業式が終わると見れなくなるなんて本当に残念だわ」
『俺は私服というやつをあんまり持ってないんだ。家ではジャージだし。ジーンズはくのはバイクに乗るときぐらいか』
 なんて話していると・・・
「マリ、大丈夫なの」
 心配そうな顔で、待合室に入ってきたのは母親だった。
「ええ、もうかなり落ち着いたわ」
「今朝、お薬は飲んだの」
 マリは”薬”という言葉がでると下を向いてしまった。俺にあまり知られたくないのか。
「飲み忘れたわ」
「そんなことだろうと思った。車の中に用意してあるから。おとうさんも車で待ってるわ」
「キタノさん、ごめんなさいね。この子の不注意で、あなたにまでご迷惑をかけてしまって」
 おばさんは、ようやく俺の方を向いて言葉をかけてきた。
 駅の外へ出ると雪はようやく弱まっていた。
 駅前のターミナル付近にランクルがハザードランプを点滅させながら停まっている。近づくとがっちりとしているが、よく引き締まった体をした中年の男性が車から出てきた。顔の日焼けも凄い。
「あなた、マリは今朝、お薬を飲み忘れたんですって」
「だって、大雪だったから急いで家を出たんだもの」
 マリはバツが悪そうに呟いた。
「しょうがないなあ。おまえはしっかりしているようで、どこか抜けている。誰に似たんだか。中に薬と水は用意してあるから、早く乗りなさい」
 マリの父親と目が合ったので軽く会釈をした。
「きみがキタノくんか。なかなか精悍な面構えだ。マリはいつもきみの話しばかりだよ」
『初めまして、キタノです』
「きみも家まで送らせてもらうよ。娘がお世話になっているし。さあ遠慮しないで乗って」
『はあ、恐縮です』
 恐る恐る助手席に座った。
 道路は意外に空いていて順調に走っていた。
「マリは、ちょっと持病を抱えているものでね。でも薬さえ飲んでいれは日常生活にはまったく問題がない。もっとも飲み忘れるとこうなるのだが」
 後部座席で薬を飲んだマリは、すっかり快復してきたようだ。
「こんなんで来春から東京で1人暮らしなどできるのかと心配になるよ」
「ところで、きみは柔道の猛者なんだって」
 マリの父親は洗練されていて、とても気さくな人だった。
『いえ、猛者だなんてとんでもありません』
「謙遜しなくていいんだよ。キタノくんの凄い試合を観たってマリから訊いているよ」
 にこやかな口調で話し続けていた。
「大学はどこを志望しているんだい?」
「おとうさん、今会ったばかりの人に根掘り葉掘り訊くって失礼よ」
 マリが口を挟んできた。
「ワハハハ・・・確かにそうだな。でもカワイイ娘のおめがねにかなった男となるとつい興味がでちまうんだよなあ」
 おじさんは豪快に笑っていた。
『ありがとうございました』
 丁寧に家の前まで送ってもらった。
「キタノくん、こちらこそありがとう」
 マリは窓を開けてにこにこしながら手を振り、やがてテールランプと共に去っていく。

 暮れから正月にかけて、マリは家族で南アルプスの山荘へと出かけていった。
 3学期になると受験のことで一杯の状況になり、入試を終えるまで会わない約束をした。言い出したのは俺の方だった。マリは週に一度だけでも会ってと反論したが、医学部を目指す彼女に今の俺の存在は邪魔なだけだと自戒したのだ。
 2月に入り、俺は東京方面の大学を3つほど受験した。ところが滑り止めの大学まで不合格となり浪人が確定する。逆にマリは第一志望の大学の難関の医学部に見事合格を果たした。
 2月末、久しぶりに黒珈琲でマリと会い、俺の不合格を伝えると彼女の落胆振りは見るに耐えないほどだった。
「せっかく一緒に東京の大学に行けると思っていたのに」
『すまん、油断し過ぎていたようだ。あと1年、地元で通える予備校でしっかりと勉強して満を持して受験にのぞむよ』
 今度ばかりは自らの不勉強が身に沁みて堪えた。
 翌日は卒業式だった。
 体育館に入場し、式歌、卒業証書授与、校長・来賓などの挨拶が続く。送辞の後、最後に答辞となるが、卒業生代表は学年主席のマリだった。マリは周囲を一切寄せつけないような毅然とした態度で登壇する。その後姿はすらっとした体型で姿勢が酷く美しい。髪も綺麗に後ろに束ねていた。そして凛とした声で立派に答辞を読み上げた。マリの登壇で式が一段と厳粛な雰囲気になったような感じがした。
 卒業生退場のときに流れた曲は松任谷由実の「卒業写真」である。ふと隣のクラスのマリの姿を見ると肩を震わせながら泣きじゃくっていた。いつものマリに戻ったような気がして俺は少しほっとしていたのかも知れない。
「キタノくん、待って」
 別に決めていたわけではないが、校舎内でマリと公然と言葉を交わしたことは今まで一度もなかった。だが卒業式を終えた今、初めてマリに呼び止められた。
「キタノくんの学生服姿もいよいよ今日で見納めね」
『ああ、俺もなんだか寂しい気がするよ』
「あのお願いがあるの」
『なんだ?』
「キタノくんの第2ボタン、わたしにください」
 第2ボタン、後で知ったことなんだが、戦争中、学徒動員で戦地に出征しなければならなくなった学生が思いを寄せ合う女性に手渡したのが起源のようである。第2ボタンの場所は心臓、つまりハートに近い。このボタンを俺だと思ってくれということらしい。
『俺のでよければ喜んで』
「ありがとう。大事にするね」
 マリはとても可愛らしい表情で微笑んだ。
 高校生活最後の瞬間、校門から初めてマリと肩を並べて歩いた。
 吹く風にどこか春の香が漂う穏やかな日和である。

 いよいよマリが上京する日がやってきた。
 10時46分発の上野着の特急に乗ると言っていた。俺はCBXのスロットルをあげ、駅に向かう。空はよく晴れ渡っていたが、流石にまだ肌寒い。
 ヘルメットを持ちながら階段を昇りホームへ着くと両親と一緒に電車を待つマリの姿が見えた。
 マリのきらめくような美しさは、誰の目にもとまるほど強烈なインパクトを放っている。
「キタノくん、やっぱり見送りに来てくれたんだ。凄く嬉しいわ」
 俺の姿を見つけたマリは顔をほころばせながら叫んだ。
「キタノくん、すまんなあ」
 マリの父親は寂しそうに呟いていた。
『いえ、どういたしまして』
 おじさんの哀しそうな横顔を見ると、とても気の毒になってしまった。
「一足先に東京へ行ってるわね。向こうで待ってるから、来年は必ず合格してよ」
『ああ、きっと』
 マリの両親は、気を遣っているのか、俺やマリのいる位置から目をそらしているように感じた。
「バイクで来たの」
『ああ』
 マリは柱のある方へ俺の手を引いた。
「これを見て」
 マリは胸元からネックレスを取り出した。ネックレスにはなんと俺の制服の第2ボタンがぶら下がっている。
「このネックレス、肌身離さずつけてるわ」
『俺のボタンもずいぶん報われたようだな』
 俺は思わず吹き出してしまう。
「あっ、あと、お願いがあるんだけど。でもキタノくんにこれで何百回目のお願いをしたでしょう。ごめんね」
 マリの瞳は潤んでいる。
『なんだよ、俺のできる範囲のことなら、なんでもしてやるぞ』
「馬鹿みたいだと思わないでね」
 ほとんど涙声になっていた。
「あなたのバイクの後ろには誰も乗せないで。わたしだけの指定席のままにしてもらえない」
 意表をつくマリの願いに俺は唖然としてしまった。
「やっぱり無理よね」
 マリは下を向いてうつむいた。
『きみが、そうしろと望むなら、タンデムシートには生涯マリしか乗せない。マリの指定席にするよ』
 マリは俺の顔をじっと見据えていた。
 そして大粒の涙を流しながら俺の胸にしがみついてきた。
『馬鹿な真似はよせ、すぐそこにマリのおとうさんやおかあさんたちが居るのに』
「大丈夫、ここは柱の蔭の死角だから誰からも見えないわ」
 俺は自然にマリと唇を合わせてしまった。
「あの丘の上で、あなたと初めて言葉を交わして以来、ずっと、いえ会えば会うほど胸が張り裂けるぐらい優しいあなたに惹かれてしまったの。オンブしてもらったときのことも忘れられないぐらい嬉しかった。あなただけを愛していたわ。きっとこれからも永遠にこの思いは変わらない」
 マリの言葉には流石の俺も閉口してしまい、涙が頬をつたった。
「時々手紙を書くから読んでね」
『ああ、わかった』
 マリはようやく俺の腕の中から離れた。
 やがて出発の時刻が近づき、マリは電車に乗った。
 ベルが鳴り、ドアが閉まる。
 マリはずっと泣いたままだった。
 ゆっくりと列車は動き出し、堪えきれなくなったマリの母もハンカチで目頭を抑えていた。
 マリの姿も見えなくなり、最後尾の車両も視界から消えていく。
「寂しくなるな。マリはキタノくんとつき合うようになって、ずいぶん明るくなったんだよ。以前は学校でのことなど自分から話すことなどなかった。表情も穏やかになったし」
 マリの父がぽつりと言った。
「うちは、一人娘のマリが居なくなるとかあさんとぼくのふたりっきりだ。キタノくん、たまには、うちに遊びにおいで。飯ぐらいなら、いつでもご馳走するよ」
 おじさんは放心したように線路の方へ目をやり、やがて、ゆっくりと歩き出した。
 俺は、心のどこかに巨大な空洞ができたような気持ちになり、マシンに跨っていた。

 俺は紺ブレとグレーのスラックスを新調し、予備校へ通うようになった。それなりに真面目に講義を受け、家でも毎日勉強は欠かさなかった。ただCBXのローンが残っていたので早朝の新聞配達だけは高校時代から継続していた。
 4月の半ばには早くもマリから手紙が届いた。なんと山岳部に入部したと書いてある。体調は大丈夫なのだろうか。女子部員はマリたったのひとりらしい。またドイツ語の講義がかなり難しく苦戦しているそうだ。GWは新入部員歓迎登山会があり帰省できないとも書かれてあった。
 俺も近況などを書き返信したが、GWを過ぎるとまたマリから手紙が届いた。マリらしく本当に事細やかな内容だった。
 丹沢方面への新入部員歓迎登山のときのこと。大学の講義のこと。山岳部員のとの関わり。先輩がこんなことを言ってみんなを笑わせたみたいな話とか。読んでいると、この男は絶対にマリに好意、いや、それ以上の感情を抱いているのかと邪推したくなるような部分もあった。
 やがて季節は夏へと移りゆく・・・
 夏休みもマリは山岳部で日高山脈を縦走する計画があるそうだ。さらに集中講義などもあり帰れなくてごめんなさいという内容の手紙を書き送ってきた。
 これじゃあ、俺なんかよりもおじさんやおばさんがあまりにもかわいそうだ。一人娘のマリをあんなに可愛がっていたのに。3月に上京して以来、まだ一度も実家に顔を見せないなんて。
 そんな中、お盆に都内の大学の商学部に進学し、帰省中のヨシバと黒珈琲で再会した。そしてあるショッキングな情報を耳にする。
「7月にな、神田の駅前を歩いていたら、ミゾグチを見かけたんだよ。あれほどの美人だから間違えるわけがない。しかも男連れでな。あっ、キタノ、気を悪くしないでくれよ。でもあれはただの仲じゃないような気がしたなあ」
 そ、そんな馬鹿な・・・
 あれほどお互いの気持ちを確認し合ったマリが、他の男と親しげに歩いているなんてあろうはずがない。
 と頭では強く否定してみたのだが・・・
 俺の心に暗い疑惑が広がってきたのは事実である。
 そして、悶々とした気持ちでCBXに跨り裏磐梯の峠道を走っていたときだった・・・
 まさに一瞬の出来事である。気づいたら、カーブで失速しながらセンターラインをオーバーしてきたオートバイが正面から突っ込んできた。
 激しい衝撃が走り、俺の体は宙を舞っていた・・・
 
「キタノくん、生きて」
『マリ?』
「わたしのことをひとりにしたら絶対に赦さないわよ」
 はっとして目を覚ますと病院のベットの上だった。
「わたしは、マリさんじゃないわよ。マリさんって、あなたの恋人?」
 看護婦さんが、吹き出していた。
「しかし、あれだけの事故で、よくこの程度のダメージで済んだものだね。まるでスタントマンだな。軽い脳震盪と全身打撲だが、意識さえ戻れば、もう大丈夫だ。きみのバイクに突っ込んできたライダーは命に別状はないが、あちこち骨折して相当な重傷だったよ」
 医師は、口髭を撫でながら呆れたような顔をしていた。
 CBXはフロントフォークが折れ、キャブも割れてしまい廃車の運命になった。だが、相手のセンターラインオーバーという重大な過失責任で、かなりまとまった額の保険金がおりた。
 もう、これに懲りてオートバイは降りなさいと親から厳しく諭されたが、俺はこればかりは、どうにも譲れず秋にはRZを購入していた。
 マリからは定期的に手紙は届いていた。でも、なんとなく事故のことには触れずに簡単な返信のみを繰り返していた。
 12月になると山岳部は本格的な冬山シーズンのピークとなる。マリから手紙を出す閑がなかなかなくて申しわけないというという連絡があった。暮れから正月にかけての冬休みの期間もアルプス方面への山行があり、やはり帰省できないそうだ。
 俺は頭の片隅で、どこかマリに巧みに避けられているような気がしておもしろくなかったのも事実だ。
 2月の中頃には帰省できるから会ってという手紙がマリから届いた。しかし、その時期は、俺の大学受験の真っ只中で、東京の府中の叔母の家に泊まりこんでいた。結局、マリと会うことができず、ますます溝が深まったような暗雲が立ち込めていた。
 すれ違いばかりで、俺はマリとの縁もこれまでのように感じていた。
 その頃、ようやく合格通知が届く。進学先は、都内ではなく横浜市内の大学の経済学部に決定した。過度な親切がなく、そのくせ自主性を重んじる学風がなんとなく学生の自由を尊重しているようで俺の性に合っていた。しかし、なぜかマリに連絡する気にはなれなかった。やはり俺は、ヨシバの話に拘っていたのかも知れない。
 3月も山岳部では意欲的に活動する時期だ。マリからの連絡もない。
 俺は府中の叔母の家を拠点に横浜市内の不動産屋をまわりアパートを決めた。場所は東横線沿線の日吉に決定した。日吉なら大学までも近いし、渋谷へも20分程度と地の利がある。
 トイレもシャワーも共同、部屋の間取りは6畳一間。小さなキッチンだけはついている古い木造2階建ての安アパートだ。資金不足なので電話も引けなかった。入居しているのは学生のみである。
 4月当初の入学式を終え、高校時代から継続して柔道部へ入部する。学業と部活動をそれなりにこなし、まあ、ざっと有意義な日々を送っていた。
 5月になるとインカレがあり、団体戦に出場するも、あまりにもレベルの違う選手に一瞬で投げ飛ばされて惨敗を喫す。かなり自信を失う。
 それでも6月には、初段クラスの選手を相手に7人抜きを完遂し、講道館柔道二段に昇段する。
 7月、福島の実家よりマリからの手紙が転送されてきたが封を切らないでそのままにしてしまう。
 この頃、奨学金と実家からの僅かな仕送りでは、とてもとても生活していけない事実に気づく。バイトをして現金収入を得ないと学生生活を続けることすら不可能な状況だった。
 やむなく柔道部主将のカドワキという4年生へ退部を申し出た。カドワキは練習でこそ厳しい男だが普段はとても情が深い好漢だった。
「キタノ、今、きみに辞められたら困る。なんとかならんか。団体戦のメンバーも組めなくなるんだ」
『カドワキさん、今までお世話になったことは感謝していますが、背に腹はかえられません』
 俺もここで辞めたくないのが本音だが、こればかりはどうしようもなかった。
「わかった。でもせめて籍だけは柔道部でいてくれ。練習は都合のいいときだけ参加すればいい。あと団体戦のメンバーが足らないことがあったら大会へは必ず出場してくれ。頼む」
『しかし、それではあまりにも・・・』
 俺は躊躇ったが、結局、カドワキに押し切られてしまった。
 バイトは日吉駅近くのスーパーで始めた。仕事の内容はラベル貼りや品出しなどの地味な作業が多い。
 夏休みに入った頃、ようやくバイトに慣れてきた。そんなある夜、俺はスナック菓子の品出し作業をしていた。もう時間は21時近い。
「キタノくん?」
 聞き覚えのある声がした。
 振り返ると懐かしいマリの姿があった。
「どうして、なんの連絡もくれないの?」
 マリは目を真っ赤に泣きはらしながら立っていた。
「あなたの住所を辿ってようやくアパートを見つけたわ。そして、隣の部屋の方から、ここでバイトしているって訊いたから」
 約1年3ヶ月ぶりに見るマリの姿は、さらに洗練された大人のムードを醸し出していた。
『もうすぐ、仕事を終えるから、すまんが外で待っていてくれ』
 胸が締めつけられる思いをしながらマリに告げた。
「キタノ、事情はわからないけど、こんなところで女を泣かせるような真似だけはするな。タイムカードは押しておくから今夜はもうあがっていいぞ」
 その場の異様な空気に気づいたスーパーの若い店員が俺に言ってくれた。
 なんとなく人情映画もどきの雰囲気が残る時代だったのかも知れない。
「キタノくん、どうして、こんなにわたしに冷たくなったの」
 外に出るとマリは俺の顔をじっと見つめていた。
『いや、マリにいい人ができたようだし。それに俺ではきみの役不足だよ』
 苦しい言いわけだった。
 マリは胸元から俺の第2ボタンのついたネックレスを取り出した。
「馬鹿ねえ。わたしは、毎日このネックレスをつけていたわ。そんな女があなたを裏切れると思うの?」
 意外に穏やかな口調に俺は驚いた。
 俺は、かつて自分のガクランについていた第2ボタンを見た瞬間、なにもかもが氷解してしまった。
『マリ、俺が全部悪かった』
 俺は自分の狭量を素直に詫びた。
「だったらさあ、居酒屋でビールぐらい奢ってよ」
 マリは吹き出した。
『きみは、酒を飲むようになったのか』
「だって山行の打ち上げとか、いろいろつき合いもあるのよ」
 後年のヨッパライダーもこの頃は、普段、まったく酒を飲む習慣がない。
 とりあえず、駅前の居酒屋でマリとビールを散々飲む。
「確かにこの1年、何人もの人から告白されたわよ。でもわたしには大事な人がいるからと一顧だにせず、全部、一瞬でお断りさせていただいたわ。あたりまえじゃない。わたしにはキタノくんしか見えないんだから」
 マリは笑っていた。
 俺も事故でCBXを失いRZに買い換えた話をすると、
「どうして、そんな大変なことを、わたしに一言もいわないの」
 こっぴどく叱られてしまった。
 やがて酔いがまわったのか、マリは急に無口になり、とても眠そうな表情を浮かべていた。
『終電が近いぞ。もう帰ろう』
 俺はマリに告げた。
 外に出ると都会では珍しく見事な星月夜であった。
「もう今夜は帰れない。キタノくん、オンブして」
『馬鹿だな。俺だって男だぞ。男くさ過ぎるぐらいな』
「キタノくんなら、いいの」
 マリは俺の肩へ寄りかかってきた。
 俺は久しぶりにマリを背負う。
「キタノくんの背中の匂いって懐かしい」
 マリは何もかも安堵したように眠ってしまった。
 アパートに着き、俺のあまり清潔感のない布団にマリを寝かせた。
『事故に遭って意識を失っていたとき、きみが夢の中へ現れて、ずっと俺のことを励ましていてくれたんだよ』
 マリに呟いた。
 6畳一間のおんぼろ部屋にはマリの寝息だけが微かに響いていた。
 
 ふと目を覚ますと俺の横で寝ていたはずのマリの姿がない。
 もう、帰ってしまったのか。しかし、まだかなり早い時間帯である。
 そんなことを寝ぼけ眼で考えていると部屋のドアが開いた。
「おはよう。起きてたの。しかしさあ、あなたの部屋の冷蔵庫ってなにも入ってないのね。朝食を作ろうと思ったけど、これじゃなんにもできないよ。ちょっとコンビニまで買い物をしてきたわよ」
『いや、つい面倒くさくてね。最近は朝食も抜きなんだ。食事は格安の学食かバイト先の社食で、ほとんど済ませている。なんだか痩せてきたよ』
「朝食をとらないと、その日一日のパワーが出ないものよ。山行を繰り返しているうちに身に沁みて実感してるの」
 マリはオーブンでパンを焼きながら、ハムエッグをフライパンで炒め始めた。なんとも朝の充実した食事の香が部屋中に満ちている。
「あっ、シャワーも勝手に使わせてもらったよ。タオルも借りたから、今度、洗濯して返しにくるね」
『タオルぐらい俺が洗濯するから置いておけ』
「だって恥ずかしいもの」
 簡単だが、マリの作った朝食はとても美味しかった。
 マリも食事を終え、軽く化粧をほどこすと妖しいほどの美しい光彩を放つ。
『薬は飲んだのか』
 なんとなく照れ隠しに俺は呟いた。
「やあねえ、キタノくん。なんだか、うちのおとうさんみたいな言い方よ」
 マリは吹き出した。
「あさってから、中央アルプスで夏合宿に入るの。それが終わったら実家でのんびりするわ。あなたも田舎に帰れるんでしょう」
『俺はこっちでずっとバイトだ。なにせ夏休みは貧乏学生にとってはかきいれどきのもんでな』
「なんだ、また当分会えなくなるの」
 がっかりした表情で呟く。
 俺はマリを駅まで送った。空は一片の雲もなく晴れわたっている。
「また来るわ。鍵を封筒に入れて下駄箱に置いているのを見ちゃったし」
『いや、しかしなあ。俺、女を初めて泊めてしまったぞ』
 マリの顔が陽に反射して、とても眩しかった。
「あたりまえじゃない。わたし以外の女を連れ込んだら絶対に赦さないわ」
『怖いんだな、マリは』
「今頃分かった?わたしは、あなたがダメって言っても押しかけてくるわよ」
『おうコワ』
 というと俺の手を握り、
「でもキタノくん、大好きよ」
 マリに耳元で呟かれ、赤面してしまう。なんとなく俺はマリにいいように翻弄されているような気がしないでもない。
「またね」
 改札口で、マリは可愛らしくにっこりと微笑んだ。その姿がつい2年前、あの思い出の丘の上で初めて言葉を交わした時代と比べると、とてつもなく大人の女に見えた。あの頃が、ずいぶん遠い昔のように感じられた。
 驚いたことに大学の夏休みは9月の後半まで続き、俺は働きづめに働いた。そのお蔭でややまとまった金を手にする。そして、ようやく電話を取り付けることができ、マリと毎日のように連絡を取り合えるようになった。
 秋が深まった頃、久々にマリとタンデムツーリングへ出ることにした。
 目的地は伊豆。マリは大はしゃぎで前日から泊りがけでやってきた。
「お弁当も用意するね」
『いや、マリのサンドイッチも久々に食べたい気もするが、せっかくだから地の物を食べよう』
「地の物、いいわねえ。楽しみだわ」
 翌朝、早い時間にアパートを出る。当時は第3京浜も横浜新道も西湘バイパスも2人乗りは禁止だ。つまり、すべて下道となる。
 ところどころで渋滞している中原街道を延々と走り続け茅ヶ崎海岸に出る。そして最初の休憩をとった。
「なによ、このシートお尻が痛くてたまんないわ。それにこの甲高いエンジン音と排ガスが凄過ぎる」
『ああ、このRZはタンデムツーリングするには確かにつらいなあ。2サイクルっていって、どちらかというと加速を楽しむバイクなんだ』
「前のCBXの方が絶対によかったわ」
『それじゃ、このバイクのタンデムシートは、きみの指定席ではなく自由席ということにするか』
「それはダメ。ごめん。もうモンクはいわないから、指定席のままにして」
『冗談だよ。でも来年には試験場で大型免許を取るつもりだから、それまで我慢してくれ』
 俺は吹き出してしまった。
 湘南海岸を快走し、箱根に入った。やはりターンパイクなどの有料道路はタンデムが禁止なのでR1をひたすら走る。しかし下道ばかりだと本当に伊豆は遠かった。
 ようやく修善寺に出た頃には、昼近くになってしまう。ここで善寺蕎麦を食べたがコシがあり、とても美味しいとマリも満足していた。
 西伊豆スカイラインからの眺望も満喫し、帰路に着く。帰りは大磯付近で渋滞に巻き込まれるがすり抜けでかわしていく。しかし、渋滞で停まっている四輪の人たちは、永遠に家まで帰れないんじゃないかと錯覚するぐらい動けないでいた。
 あたりが暗くなった頃、ようやくマリの住む世田谷の賃貸マンションまで辿り着く。もう、俺は疲労困憊になっていた。
 マリの部屋はワンルームだが、実に丁寧に片付けられていた。綺麗好きは相変わらずのようだ。
「今夜は、うちへ泊まっていけるんでしょう」
 エプロン姿のマリは、よく冷えたビールを小さなテーブルに運んできた。
『すまんが、遠慮なく泊めてもらうよ』
「これから日吉までオートバイで帰ったら大変よ。ゆっくりくつろいでね。今、晩ご飯を用意するから」
 俺が2杯目のビールを飲みかけたとき・・・
 電話のベルがなった。
「はい、ミゾグチですが」
「・・・・・」
 マリは、明らかに嫌悪しているそぶりだった。
「今、ちょっとお客さんがいるので、電話を切らせてもらいたいのですが」
「・・・・・」
「え、そんな困ります」
「・・・・・」
「本当に切りますね」
 悪質な電話の勧誘か?
『マリ、どうかしたかい?大丈夫か?』
 俺は見かねてマリへ声をかけた。
 マリは受話器から、少しだけ顔を離し、
「大丈夫よ、すぐ切るから」
 といいながら、
「では失礼します」
 と呟いた。
「・・・・・」
「なんですって。男でもいるのかですって。そんなわたしのプライベートなこと、先輩にはまったく関係ないでしょう。失礼じゃないですか」
「・・・・・」
「じゃあ、はっきり言わせていただきます。今は彼との大切な時間です。あなたに邪魔をされるいわれなどまったくありません」
 マリは怒ったような険しい表情で電話を切った刹那、しゃがみこんで激しく咳き込んだ。
『大丈夫かマリ。やはり疲れたんだな』
 俺はそっとマリの背を撫でた。
 なにやらただならぬ雰囲気が漂っていた。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
 咳がおさまったマリは立ち上がり夕食の支度を再開した。
 ご飯を食べながらマリは事情を話し出した。
 電話の男はウスキという山岳部の3年生である。2浪しているから、俺やマリより3つ年上ということになる。マリは入部早々口説かれたが、きっぱりと断った。しかし、ウスキはその後も正門の前や駅で待ち伏せ、つきまとってくる。マリがメインザックを新調するために神田の山道具屋まで行こうとすると「ぼくが見立ててやるよ」と言いながら図々しくもついてきたという。
 ん?神田?
 ヨシバが神田の駅前でマリが男と歩いていたのを見たというのは、この時のことに違いない。
 2年になり、新入部員の中にメグミという女子がいたので、いつもメグミと帰るようになった。流石にウスキも待ち伏せ攻撃をかけられなくなり、最近は安心して帰途につけるようになった。ところが、部員名簿あたりからマリの電話番号を知り、頻繁に電話をかけてくるようになったという。完全にストーカー行為である(当時はこの言葉がまだ存在してなかった)
 ウスキは体力がなく、山ではいつもバテるので、山行にはなんだかんだと理由をつけて欠席する名ばかりの山岳部員でもあるそうだ。
「本当にしつこくて嫌な男よ。気が小さいくせにかっこばっかりつける薄っぺらなやつ。大嫌い」
 マリは辟易するように呟いた。
『俺が話をつけてやろうか』
「いいのよ、あんなやつぐらい。わたしが自分で決着をつけてみせるわ」
 一瞬、マリはきつい目をした。
「でも、わたしカヨワイの。いざとなったらキタノくん、守ってね」
『あっ、ああ、もちろん』
「嬉しいわ〜」
 マリがいきなり抱きついてきたので、俺は後ろにひっくりかえってしまう。
 その夜、マリは俺の左胸にしがみついたまま眠ってしまった。
 2日後、俺がバイトから帰ると部屋の灯りが点いている。
「おかえり」
 マリの声だ。
『なんだ、来てたのか』
「やっぱり、ひとりでいると怖いの。ご飯は」
『来てると思わなかったから、済ませてきたよ』
 驚いたことにマリは、俺が布団に入ってからも座り机の電気スタンドを点けて勉強していた。俺はすっかり熟睡してしまったので、マリが何時まで起きていたのかは知るよしもない。流石は医学生である。
 そんな日々を送っているうちに歳も暮れてきた。そろそろマリの山行シーズンが始まろうとしていた時期の夜、マリから電話がかかってきた。
「今ね、渋谷で山岳部の飲み会をしているところなの。それで盛りあがっちゃって、恋人のいる人は相手をお店につれてくることになってしまったのよ。キタノくん、来てもらえないかなあ」
『やだよ。それじゃ、まるで見世物じゃないか』
「そう言われると思った。実はウスキが来てるの。ここで思いきり見せつけてやればウスキも諦めると思っていたところなのよ」
『ほう、これはマリも策士だな。わかった。そういうわけなら行ってみよう』
 マリからおおよその場所を訊いて東横線に乗り込んだ。

 渋谷駅から歩いて10分ほどすると”アイガー”という古い洋風造りの居酒屋に辿り着く。どうやら、そのネーミングからして山岳部いきつけの店らしい。店に入るとたくさんの男女の笑い声が響いていた。
「キタノくん、来てくれてありがとう」
 マリがすぐに入口まで迎えに来てくれた。
 他の部員からは拍手で歓迎される。
 いろいろな部員と話したが、皆、山の男らしく存外気さくで気のいい連中ばかりだった。しかし、渦中のウスキとはどの男なんだろう。
「キタノくん、ちょっとぼくのテーブルで一緒に飲まんか」
 マリを見ると頷いたので、その男の座るテーブルへ移動した。よく日焼けをした典型的な山屋のスタイルの男なので、ウスキではないだろうと直感で思った。
「主将をさせてもらっているマジマと言います」
 丁寧な物腰だ。
『キタノです。マリがいつもお世話になっています』
「いやキタノくん、ミゾグチくんは大変な美人だし、気立てもいいので山岳部のアイドルなんだ。そのアイドルのいい人がきみだとは本当に羨ましい」
 マジマは豪快に笑っていた。
「さらにミゾグチくんの実力は一流だよ。経験や勘は上級生の我々を凌駕するものがある。ぼくもたじたじな場面が何度もあった。あと数年もすれば日本を代表するような女性アルピニストになれるんじゃなかろうか」
 確かにマリは小さい頃から両親に連れられて登山を続けてきたのだが、そんなに凄い実力者だったとは意外である。
 マジマのテーブルを辞し、俺はマリの席の隣に戻った。
「どうだった、マジマさん」
『きみのことを誉めてたよ。一流の実力者だとね』
「まあ、そんなこと。おなたの前だから、お世辞を言ったのでしょう。ちょっとお手洗いにいってくるから待ってて」
 マリが席を立つと、
「キタノくんだね。話があるんだ。外までつき合ってくれるかい」
 僻みっぽい話し方だった。線が細いし山焼けもしていない。口元にしまりがない実に嫌らしそうな顔立ちをしている男だ。こいつが、ウスキだな。
 外に出ると冬の冷たい風が吹いていた。
「ぼくはウスキというものだ。きみは将来、なにになるつもりなんだ」
 いきなり質問される。
『まだ、はっきりとは決めてません』
「やはりそうか」
 ウスキはにやりと嫌らしい笑い方をした。
「単刀直入に言おう。きみはミゾグチくんから手を引きたまえ。正直言って不釣合いだよ」
『マリがそういうなら潔く身を引くが、あんたに言われて身を引くのはごめんだな』
 もう俺の腹は爆発寸前、臨界点に達している。
「わからない男だなきみも。あの店にいたのは全員医学部の学生だ。きみのような無目的な文系の学生とは住む世界が違い過ぎるんだよ。つまり将来は医師になるエリートなんだ」
『そのエリートが、嫌がる他人の彼女を追いかけまわして失態を演じるとはオメデタイ話だな』
「なんだと」
 ウスキは殴りかかってきたが、軽くかわすと勝手に街路樹に顔をぶつけて鼻血を噴き出していた。
『相手になるぞ』
 強烈な睨みを効かせると、ウスキは目をそむけた。
「これだから野蛮人は嫌なんだ」
 どっちが野蛮人なのやら。
 その時・・・
「なにやってるの」
 マリが叫びながら店を飛びだしてきた。
「キタノくんの姿がないから、多分、こんなことだろうと思ったわ」
 ウスキの顔を睨めつけている。
「ウスキさん、あなたキタノになんと言いました」
 マリは本当に怒り心頭に達している様子である。
「きみとは不釣合いだから、身を引けと言ったまでだ」
 ウスキはふてぶてしい顔で叫んだ。
「ふざけんじゃないわよ」
 バシッ、バシッ・・・
 マリはウスキの顔を思いっきり往復で平手打ちをくらわせた。ウスキはまた鼻血を噴き出す。
「なにが不釣合いよ。あんたに関係ないじゃん。いい気になってんじゃないわよ」
 ウスキは目が点になっていた。
「ミゾグチくんが・・・ミゾグチくんが、ぼくを叩いた。ぼくの知っているミゾグチくんじゃない」
 ウスキは気の毒になるほど狼狽している。
「わたしはねえ、キタノを侮辱するやつは誰だろうと絶対に赦さないわよ」
 こんなに激怒しているマリを初めて見た。
「なんなら、もう1発、ひっぱたいてやる?」
「ひ、ひ、ひえ〜、違う、ミゾグチくんはこんなはずじゃないよ」
「やかましい。このコンコンチキのマザコン野郎。おとといきやがれ」
 マジギレしている。
『ま、マリ、もうよせ。もう充分だ』
 ウスキは駅の方向へ這いつくばるような格好で逃げ出した。
 なんて気丈な女なのだろう。俺も思わずマリはこんな人じゃないと思ったのは内緒だ。
「さあ、今夜はもう帰りましょう」
『あ、ああ』
「遅いから、うちに泊まっていけ。あ、いえ、泊まっていってね、キタノさん、ウフ」
『あっ、はい』
 カヨワイ?守って?

 年末からマリは黒部方面へ山行に向かった。なんでも今回はバリエーションルートを求めるらしくかなり厳しい登山になるそうだ。メンバーも精鋭のみのパーティである。でもマジマがいっていたマリの一流の経験と勘という言葉が頭の隅に残っていたので、さほど不安な気持ちにはならなかった。
 俺は暮れから正月3日まで実家に帰省して日吉のアパートに戻った。翌日からすぐにバイトに入り、びっちりと働く。この年は雪の当たり年で東京方面でもしょっちゅう大雪になった。そんな雪の夜、げっそりとやつれたマリが俺の部屋にやってきた。
「今回は流石にしんどかったわ。山も雪が多過ぎるのよ。雪が締まらないから、あちこちで雪崩も起きてたし」
『危なかったな』
「なんだか体調もよくないの」
 マリは俺の部屋で2日間ほどぐったりと寝込んでしまった。とにかく栄養のあるものをと思い、肉を炒めたり、キムチ鍋を作って食べさせるとマリはどうにか快復してきた。
「ごめんね。面倒かけちゃって」
 マリは申しわけなさそうな顔をしていた。
「気にしなくていい。とにかく食べろよ」
 俺はかつて山行でこれほどのダメージを受けたマリの姿を見たことがなかったので、ちょっとショックだった。
 俺も1月末から後期試験が始まる。講義はほとんど休むことなく出席していたので、ノートもばっちり取ってある。つまり、それなりに自信はあった。問題は語学だ。ほとんどが原書なので、さっぱりわからん。しかし、マリにかなり教わったのでなんとかなりそうだった。
 無事、試験期間が終了し、あとはまた長い春休みに入る。俺はとにかくバイトに励んだ。
 ある晩、バイトから帰るとマリが来ていた。
「ねえ、2月の終わり頃、一緒に田舎に行かない」
『俺は正月に帰ったばかりだよ』
「うちの両親、特に父があなたに会いたがっているのよ」
『へえ〜なんでまた?』
「わたしもキタノくんはバイトとかで忙しいっていったんだけど」
『まあ、少しならつき合ってもいいよ』
「ごめんね、父の我がままで」
 マリはすまなそうな表情で呟いた。
『それより、この時期なのに山行はしないのか』
「ええ、黒部以来、体調がすぐれないし、あと極限に近い状態での人間関係の脆さというか見たくない部分を知ってしまい、なんだか集団行動が受けつけないの。山は止めないけど山岳部は辞めるつもり」
 マリは溜息をついていた。よほど嫌な思いでもしたのだろうか。
『マジマさんたちが、がっかりするんじゃないか』
「でもしょうがないわ。一番の理由はね、あなたとこうしてられる時間がもの凄く貴重な気がするようになったの。なんでかはわからないけど」
 マリの言動になぜか俺は不吉なものを感じていた。
「まあ、たまにソロで山行を楽しむ程度でいいわ」
『俺が登山を始めると言っても』
 俺も山行に興味がなかったわけではない。ただ山は道具などでかなり資金がいるので敬遠していたのだ。
「え、キタノくん、登山したいの。それなら喜んで一緒に行くよ」
『今すぐは無理だが、いずれ』
「それまで楽しみに待っているわ」
 数日後、実家に再び帰省する。そして、その翌日、駅近くのフランス料理店でマリとマリの両親と食事をすることになった。この日も激しく雪が降っていた。
「やあ、久しぶりだね、キタノくん」
 マリの父は、なんだか以前より急に老け込んだ気がした。
『どうもすっかりご無沙汰しております』
「向こうでもマリがお世話になっているんですって」
 マリの母が話しかけてきた頃、コース料理が次々に運ばれてきた。ワインもどんどん注がれ、かなり酔いがまわってくる。おじさんは、もう相当酔い心地のようで顔が真っ赤だった。
「キタノくん、マリとは将来、どうしていきたいんだ」
 マリがキッとした顔で
「おとうさん、こんなところで、なにを言い出すのよ」
 たしなめるようにいう。
「そうですよ、あなた。キタノさんやマリはまだ二十歳(ハタチ)なのですよ」
「いや、二十歳といえば大人だ。だからこそキタノくんの考えを聞きたいんだ」
『よろしければ一緒になりたいと思っています』
 言っちまった。自分でもなんで、すんなり言葉が出たのか不思議だった。
「ワハハハハ!相変わらず正直な男だな、キタノくんは。都会できみたちが、どんな生活をしているのかはわからん。ただ父親として、いい加減な気持ちでマリとつき合っている男なら赦し難いと思う。なにせマリはひとり娘で目の中に入れても痛くないほどカワイイもんだからな。でもキタノくんへならマリをやれるよ。きみなら絶対にマリを大切にしてくれるだろう。もらってくれ」
 おじさんは上機嫌で笑っていた。
「そうね、キタノさんならマリの持病のことも理解してくださっているし」
 おばさんも相槌を打つ。
「あっ、そうそう肝心のマリの気持ちはどうなんだ」
 おじさんは興味津々で娘の顔を覗いている。
「ご想像の通りよ」
 マリは目にいっぱいの涙を溜めながら、うつむいている。
「キタノくん、マリは1人前の医者になるまで、まだ何年もかかるぞ。それまで待ってられるのかい」
「おとうさん、そんなにキタノくんばかり追いつめないで」
 マリが真顔で横槍を入れた。
「おう、すまん、すまん、マリの婚約者だと思うと、つい説教じみてくるなあ」
 また笑い出した。
 結局、おじさんは都会で生活する愛娘の様子が心配でならないので、その恋人であるキタノにつき合うなら誠意を持ってつき合ってもらいたいと釘を刺しておきたかったようだ。後日、マリから、おじさんの様子を訊くと、まるで憑き物が落ちたような晴れ晴れとした様子で、毎日、張り切って仕事へ向かっているそうだ。
 この年は、3月後半まで雪が降った。また杉花粉が異常発生し、ついに俺もアレルギーが発症してしまう。
 山岳部を正式に退部したマリは、時間をとれるようになり俺の部屋を隅々まで掃除したり、洗濯までしてくれていた。
「面倒だから、もう少し、広い部屋を借りて一緒に住もうか」
『馬鹿な、そんな真似をしたら田舎のおとうさんが、がっかりするぞ』
「大丈夫よ。あなたとは公認の仲だし、おとうさん、キタノくんに絶大な信頼をよせているんだから」
 マリは吹き出した。
『だから、その信頼関係がなくなるよ。信頼を得るのは月日がかかるけど、信頼を失うのは一瞬なんだ」
「なんだか説教くさい。田舎のおとうさんに似てきたわよ」
 やがて4月になった。俺は大学2年、マリは3年へと無事進級する。
 そして運命の日も確実に近づいていた。

 久々に柔道場へ顔を出すと新入部員が数名入部していた。
 既に卒業した前主将のカドワキから
「練習は都合のいいときだけ参加すればいい」
 とは言われていたが、俺はバイトで忙しいとはいえ、ほとんど約束を反故にしていたことに贖罪の意識を感じていた。
 そして、練習の締めの乱取りでは、俺は新入部員に見事に払い腰で投げられてしまう。いくらなんでも1年生にあっさり負けるとは情けない。やはり武道は日々競い合ってこそ上達するものだと痛感する。
 数日後、俺はバイト先を変えた。スーパーを辞め、コンビニにしたのだ。コンビニだと時間に固定されずに1週間のローテンションを空いている時間にシフトすることが可能になり、時間を有効活用できる。つまり講義のない時間帯もバイトができる。そうすることによって、なるべく稽古の時間帯にはバイトを入れず柔道場に日参した。やはり中途半端な幽霊部員というのが性格的にどうにも合わないようだ。
 5月後半のインカレ予選には個人・団体戦とも出場することにする。当日、マリも俺の分の弁当、さらにチームメイトへの差し入れまで用意して応援に駆けつけてくれた。マリは青いワンピースと白い帽子がとても似合っており、会場ではとても際立つ存在感を漂わせている。
 7人制の団体戦は2回戦で敗退。俺は2試合ともどうにか引き分ける。個人戦は緒戦は判定勝ちで突破したものの、結局は2回戦負けだった。なんだか冴えない試合内容である。
「結果は負けでも久しぶりに一生懸命戦っているキタノくんの姿が見れて熱くなったよ」
 マリは、そう言ってくれたが、俺自身の心中は納得がいかない。やはり稽古不足だと思う。
「キタノさん、あの人、凄く綺麗ですよね。先輩の彼女ですか?」
 新入部員のワカミヤという男が興味津々で訊いてくる。
『まあ、一応そういうことになるな』
 ちょっと照れながら答えると、
「まじっすか。かなり羨ましいですよ。ぼく、ファンになってもいいですか?」
 ワカミヤははしゃいでいる。
『そうか、マリも喜んでくれるよ』
 俺は柔道もこの程度だし、ほかにもなんの取り得もない男なのだが、後輩たちは妙に慣ついていた。
 この夜、マリは奮発してスキヤキを作ってくれた。
「やっぱり、あなたは戦っていないとダメよ。戦っていてこその男キタノよ」
 とても優しい表情で俺に話しかけてきた。
 その顔が聖母のようにとても慈愛に満ちており、思わず見とれてしまう。初めて会った時は、キツそうなイメージがあったマリだが、歳月が過ぎるほど確実に穏やかさが増してきた。
「今日は、本当に高校時代を思い出したわ」
 マリは、俺の胸に身を寄せながら呟く。
『ずいぶん遠い昔になった気もするよ』
「わたしは鮮明に憶えてる。あの丘の上であなたと初めて言葉を交わした日のことを。なにか喋らないと永遠に絆が切れてしまうと感じたの。そしてあなたに”タバコを吸いにきたのかと思った”なんて失礼なこといってしまったわね」
『そんなこともあったな。俺はただ夢みたいにきみに出会えた気がする』
 突然、背後からマリに声をかけられ驚いた記憶があった。
「なんとかあなたと接点を持ちたい一心だったのよ。わたしも随分ウブだったものよね」
 マリは自分自身の言葉に吹き出していた。
 マリは、もう、この頃には、週の半分以上は、うちへ来ていて俺の部屋から直接大学に通うようにもなっていた。さらに俺の左肩に顔を寄せて眠るのが習性になっているらしい。
 大学の講義も興味深い内容が多くなった。自然化学論の教授は熱弁家で、90分間、ひたすら宇宙について語っていた。なんでも宇宙は広がっているとか。
 文化人類学は、先生が以前、アフリカのある部族に混じって生活していた頃の話をテーマに展開する講義だった。アフリカで生活するうちに原住民の祈祷なども信じられるようになったという。現に病を祈祷で治す瞬間や雨乞いで本当に雨を降らせるシーンを目撃したそうだ。
 日本地誌、世界地誌の先生は同一で、かつて自分が実際に旅した地域を検証していく手法をとられていた。なにせ自分で見たもの感じたものばかりなので、とても新鮮な感じがして興味深い内容である。
 肝心の経済より、やはり俺は人文系に向いているのかも知れないと思った。
「なんだか、楽しそうで羨ましいわ。わたしは3年生になって、専門性が増してきて、講義についていくだけで大変なのよ」
 内科医を目指すマリは、医学部の専門課程がとても難解だと言っていた。
 前期試験が終了し夏休みに入った頃、俺は一念発起してオートバイの限定解除に挑む。当時、教習所では大型免許が取得できず、試験場での1発試験のみだけが存在する難関の時代である。百名を超える受験者のうち合格率は10%にも満たないという鬼もはだしで逃げ出す厳しさだった。
 部活、バイトの過密スケジュールの間隙を縫いながら、貸コースで腕を磨き、満を持して試験にのぞんだ。結果は完走したものの試験官も気づかなったクランクでのパイロンへの接触が後刻判明し、1回目は不合格。だが手ごたえは充分掴んだ。
 オートバイ後方の突き出したガードのバーを計算に入れなかったのが敗因だ。1週間後、二度目のチャレンジをした。今度ばかりは慎重を極めて走行し、完走する。そして晴れて限定解除に成功した。これで憧れのナナハンライダーになった。
 RZ250RRを下取りに出し、中古のCB750Fを手に入れる。この頃、大型バイクのユーザーの需要が極端に少なく、大型マシンの価格がかなり低迷していた時期だと思う。ほとんど差し引きゼロの破格で購入することができた。
「わあ、大きくて乗り心地よさそう。これよ。わたしがキタノくんに求めていたオートバイは」
 CB750Fが納車されると、マリは大喜びだった。俺は、マリのこの笑顔が見たいために事実上不可能と諦めかけていた一発試験の限定解除にチャレンジする勇気を得たような気もする。
 翌週、さっそくマリを乗せてツーリングへ出た。行先は房総方面。R16を南下し、横須賀の久里浜港を出る東京湾フェリーに乗船した。
「最高、本当にツーリングに向いているバイクなのね。フェリーに乗るのも初めてだし、なんだか新鮮なことばかりだわ」
『来年の夏は、このマシンで北海道ツーリングをしてみるつもりだ』
「本当?もちろんわたしも連れて行ってくれるでしょ。久しぶりに北海道に帰りたいもの」
『キャンプ道具とか荷物が多くなるから無理かもよ?』
「嫌よ。連れてって。キャンプ道具ぐらい私の山用のメインザックで背負うから。80リットルも積めるのよ。連れていかないともう英語を教えないわよ」
『強迫かよ。しかし、英語を教えてもらわないと困る。マリには敵わないな。一緒に北海道に行こう』
「まあ、本当?本当連れてってくれるの。楽しみだわあ」
 マリはにこにこしながら俺の姿を見つめていた。夏の東京湾の風に髪をなびかせるマリの美しさは、やはり周囲の脚光の的になっていた。
 40分ほどで千葉の金谷へ入港する。
 房総フラワーラインを快走した。房総半島先端付近の海は、南洋のような景観が広がり驚くほど綺麗な海岸線だった。白浜付近から内陸に入り、金谷のフェリーセンターに引き返す。そして帰途へ。お天気にも恵まれ、とてもいいツーリングになった。
 翌日、マリは体調が悪いといいながら寝込んでしまった。どうも正月の黒部山行以来、マリの体は本当じゃない気がした。
『一度、病院できちんと検査してみたらどうだ』
 俺は勧めてみたが、
「大丈夫、お薬も飲んでるし、これでも一応は医学生なんだから、自分の体ぐらい充分自己管理できるわ。少し休めば平気なの」
 マリは俺の言葉を受け入れず、3日ばかり、ぐったりしていた。
 やや持ち直したマリは、数日後、夏休みということで実家へと帰省していった。
 俺の夏休みは、相変わらずバイト三昧の日々である。
 長い夏休みが終わり、季節は秋へと変わりゆく。
「おとうさんがさあ、キタノくんにくれぐれもよろしくって」
 マリが元気そうな笑顔で、俺の部屋へ帰って来た。存分にリフレッシュしたようだ。
 また、いつもの生活が始まった。俺は講義、部活、バイトの3面作戦で、毎日がヘトヘトだったが、夜はマリから英語を学んでいた。
 たまにはマリをCB750の後ろに乗せ、奥多摩方面や富士五湖あまりまで足を伸ばし、タンデムツーリングもそれなりに楽しむ。
 やがて季節は、運命の冬へと突入する。
『たまには外で飲むか』
 冬休みに入ったばかりの夜、俺はマリを誘った。
「まあ、デートね。嬉しい。どこへでもついて行くわよ」
 マリは大喜びで身繕いを整え始めた。
 マリを連れ、東横線の横浜方面の終点桜木町駅(当時)で下車する。そして伊勢崎町通りを歩いた。マリは俺の左腕に手をまわしてくる。
『マリ、なんだか恥ずかしいよ』
「相変わらずキタノくんってシャイねえ」
 マリは笑っていた。
 入った店は、マーメイドポットという洒落たカフェバーだった。昔、矢沢永吉がまだ駆け出しの頃、ここでよくナマライブをしていたそうだ。当時の横浜には、こういったバーが無数に点在していた。
 マスターは、ポマードをつけ、オールバックで決めていた。
「今夜は素敵な彼女を連れてこられましたね。キタノさん」
 渋い笑みを見せる。
 実は、ここのマスターは限定解除をする前に貸コースで知り合い、すっかり意気投合していたのだ。マスターも無事、限定解除に成功して悲願のハーレー乗りになっている。
「あの、キタノくんにお話があったの」
 ソルティドックを片手にマリは真剣な眼差しになった。
『なんだよ、改まって』
「明後日から山行をするつもりなの。もちろん単独行よ。場所は安達太良山。百名山だけど難易度は高くないわ」
『安達太良って、実家に比較的近い、あの福島の安達太良山だよな』
 確かにアルプス方面の急峻な山々には比べる術もない。
 俺はドライマティーニを一気に飲み干した。
「野地温泉の登山口から入り、1日の縦走で岳温泉へ出るだけの軽い山行よ。なんだか体がナマっているし、久々に冬山登山をしてみたくなったの。山行が終わったら実家でゆっくりするわ」
 マリの今までの実績実力等を鑑みると、この程度の山行なら、まったく問題がないとは思うのだが、なぜか事故の多い山でもある。
『しかし、体調は平気なのか』
 正月の黒部登山以来、なんだか周期的に具合が悪くなるマリの体調が、かなり心配だった。でもマリの性格からして、一度言い出したことを覆すことはないと思われた。
『なんなら、俺も一緒に行くか?』
「馬鹿ねえ、なにを言い出すつもり。初心者がいきなり冬山なんて無理に決まってるじゃん。わたしなら本当に大丈夫。前日は野地温泉、翌日は岳温泉の宿に泊まるつもりだから、山中でのテン泊はなしよ。楽なものよ」
 マリは笑っていたが、俺は一抹の不安を禁じえなかった。
「キタノさん、また美しい彼女さんを連れていらしてね」
 マスターの言葉に見送られ帰路に着く。
 外は雪が舞っていた。
 深夜、俺はなかなか寝つけなかった。マリも起きていたらしい。
「キタノくん、なんにも心配ないからね」
 マリはいつになく身を激しく絡ませてきた。
 いったんマリは、世田谷の賃貸マンションへ山行の準備のために帰った。その翌日、俺は東京駅の東北新幹線ホームへマリを見送りにいく。
 山行用のザックを背負った重装備のマリの姿は、すぐに見つかった。
「キタノくん、来てくれたの。嬉しいわ」
 マリは、はっとするような綺麗な笑顔を見せた。
「キタノくん、今度帰って来たときには、またチゲ鍋作ってね」
『ああ、お安い御用だ』
「夏には北海道ツーリングにつれてってくれるんでしょう」
『俺は約束を破るような男じゃないよ』
「あなたは相変わらず、わたしのいうことばっかり聴き過ぎよ。そこがいいんだけど」
 マリは笑い出した。
「でも、ついでにもうひとつお願いを聴いて」
『なんだ?』
「オンブして」
『ばっ、馬鹿いえ。ここは天下の東京駅だぞ』
「お願い」
 俺はやむなくマリを背負った。
『なんだか軽くなったんじゃないか』
「そう?自分ではスマートになったとは思わないけど」
 やがて発車時刻になる。
「キタノくん、あなたの背中の匂い久しぶりで懐かしかった」
『マリ、気をつけていってこい』
「キタノくん、ずっと、これからも大好きよ」
 マリはぽつりと呟き抱きついてきた。
 新幹線はゆっくりと動き出した。
 空は冬空で、どんよりと冷たく曇っている。
 席に座ったマリは、にっこりと微笑み手をふった。その顔は、俺がかつて子供の頃に教会で見ていた聖母像の慈愛深き表情にやはり酷似していた。
 マリが安達太良へ旅立った翌日、俺はCB750でバイト先へ向かったのだが、途中でスピードメーターがゼロを示して動かなくなる。メーターのワイヤーが切れたらしい。ふと不吉な予感が脳裏を過ぎった。
 夕刻、バイトから戻ると電話が鳴る。
 冬休みで帰省中のヨシバからだ。
「キタノか?いいか、落ち着いて聴けよ」
 ヨシバの声は、とてもうわずっている感じがした。
「今、テレビのニュースで見たんだが・・・」
『どうした?』
 俺は訝しげに訊ねた。
「ミゾグチが・・・」
『え?マリが?どうしたんだ?』
「ミゾグチが、安達太良で遭難したぞ」
『嘘だ・・・』
 俺の頭は衝撃のあまり真っ白になった。
『ヨシバ、おまえ、いい加減なことをいうと絶対に赦さんぞ』
「だからキタノ、頼む、頼むから落ち着いて聴いてくれ」
 ヨシバもかなり動転しているらしい。
 ここからの先の俺の記憶は、暫く途絶えてしまう。

 どうか夢であって欲しいと願っていた。
 だが、マリの亡骸を見て残酷な運命を思い知る。
 21歳という、あまりにも短いマリの生涯だった。
 なんで約束を守れなかったんだ。チゲ鍋だって作ってやりたかったし、夏には北海道ツーリングへも連れていってやりたかった。いろいろな思い出が交錯し、とめどなく涙が溢れた。
 マリの顔は、今にも起き出しそうな穏やかな表情で眠っているだけだった。
 マリの体は既に司法解剖がなされ、死因が明らかになっていた。凍死ではなく心筋梗塞による病死だった。すなわち、単なる遭難事故というケースではなくなった。
 野地温泉の登山口を早朝に出発したマリは、鬼面山、箕輪山の山頂を次々に踏破し、鉄山付近で強烈な吹雪にやられるが、ひるまず安達太良山頂から下山の途につき、ゴンドラリフト近く、すなわちスキー場の最上部付近まで到達していた。そこで突如発作が起き、力尽きたようだ。スキー客に発見された時には既に事切れていたという。死亡推定時刻は午前9時半。
 つまり、猛烈な吹雪に見まわれながらも正規のルートからまったく外れることなく、スキー場まで辿りついたことになる。しかも恐るべきペースで。山行の途中で、なにひとつ難に遭ってない。遭難の範疇には入らないことになる。マリほどのアルピニストが技術や天候で左右されるはずなどありえなかったのだ。
 マリの病は、全身の血管に炎症を起こす原因不明の難病だが、投薬で症状を抑えることも可能だった。ただ、もっとも問題となるのは心臓に瘤を残す後遺症がでることだ。その場合、薬を飲み続けていても心筋梗塞発作を起こし、死亡する例が稀にあるという。まさに彼女の症状に該当していた。
 マリは、この山行で生きながらえたとしても余命は僅か1年程度だったらしい。いつの間にかマリの病状は進行してしまっていた。
 マリの右手には、なにかが固く握られており、なかなか掌が開かなかったという。そして、ようやく掌から出てきたものは、学生服のボタンがついたネックレスだった。つまり俺の第2ボタンをしっかりと握りしめながら散華していった。
「このボタンは、マリの形見としてキタノくんが持っていた方がいいな」
 マリの父が呟いた。
『いえ、これは俺がマリに贈ったものです。マリに最後まで持たせてやりましょう』
 俺はマリの首へもう一度、ボタンのついたネックレスをさげた。
 マリの亡骸が火葬され、なにもかもが終わった。
「キタノくん、もうマリは、どこにも居なくなってしまったよ。妻はショックで寝込んでしまった」
 おじさんは、涙を堪えながら気丈に一切を指揮っていたのだが、すべてが終わり緊張の糸が切れた様子で男泣きに泣いていた。
『俺ももう生きていく意義を完全に見失いました』
 俺は呆然としながら呟いた。
「馬鹿な考えだけはするな。ぼくは今もきみのことを実の息子同然に思っている。どうかマリの分まで長く幸せに生き抜いてくれよ」
 窓の外は怒涛のように雪が降り続いている。
 ふと風雪の中を学生服姿の俺がマリを背負って、ずっと歩き続けている情景が思い浮かんでいた。
 その姿が、これからの俺の生涯を賭けて背負うべきテーマなのかも知れない。

 やがて俺は大学3年へと進級する。
「ねえ、キタノくん。あんたのオートバイってさ、ナナハンじゃん。ちょっと後ろに乗せてよ」
 大学生協の前に停めていたバイクにまたがると、同じゼミのナツキに声をかけられた。近頃、やたらと俺にまとわりついてくる苦手な女だ。
『やだね。俺のバイクの後ろに女は、いや誰も乗せねえよ』
「なにが硬派キタノよ。あんたの無愛想、どうにもならないわね」
 ナツキは俺に向かって叫んでいたが、かまわずCBのスロットルをあげた。
 マリを失った俺の心は、まるで抜け殻のようになり、笑顔という表情が消えていた時期かも知れない。マリ以外の女は、とてもじゃないけど考えられなかった。

 月日は流れてゆく・・・

 大学を卒業し、スーツ姿の社会人になる。
 俺は生涯独身を貫くつもりだったのだが、そういうわけにもいかず28歳で結婚した。ただ、マリへの真摯な思いは生涯消し去ることのできない普遍的なものだし、真実を妻に隠すべきではないと判断して結婚前にすべてを打ち明けた。妻に話した内容こそが、このストーリーの全編である。俺の初恋、いやマリと一緒に過ごした3年余りの輝ける日々は、俺の青春そのものだった。
「マリさん、可愛そう」
 妻は涙を流しながら、すべてを受け入れてくれた上での結婚だった。
 マリの死から実に21年後、奇しくも俺は山仲間とその家族で野地温泉から岳温泉までのルートを歩いていた。
 ゴンドラリフトが見えてきた頃、マリの終焉の地に立つ。なんだか感慨無量だった。今日の安達太良は実によく晴れわたっている。
『マリ、昔、きみからもらったバンダナは今も使わせてもらっているよ。このバンダナを頭や首に巻いて、羅臼岳も登った。人跡未踏の知床岬も踏破した。ずっと身につけていた』
 俺は用意してきたローダンゼの花を一輪雪の上に供えた。花言葉は”変わらぬ思い”だ。あっという間にマリがこの世で生きていた21年という同じ歳月が経過してしまった。俺の髪には白いものが混じっている。もう、あの時代は還ってこない。
 この瞬間、在りし日のマリの美しい面影が彷彿して、とてつもない哀しみに襲われる。そして俺は不覚にも号泣してしまった。
「キタノさん、泣かないで」
 若い女性の声がした。
『マリ?』
 振り返ると、集団山行の参加者のひとりであるヤヨイの姿があった。彼女はまだ高3のとても可愛らしい女の子である。顔立ちがどことなくマリに似ているような気がした。
『い、いや、ちょっと目から鼻水が出てしまったよ』
「大変よ、キタノさんが泣いてるよ」
 ヤヨイが叫んだ。
 後ろからやってきた男の子たちが、
「きのうの夜の野地温泉の夕食のおかず、おまえがキタノさんの分まで食べたから泣いちゃったんだよ」
「だってさあ、キタノさん、うちのおとうさんとビールばっかり飲んでおかずを食べないんだもん」
 無邪気にはしゃいでいる。
「ところで、なんでお花を雪の上に置いてるの?」
 ヤヨイが首を傾げていた。
『かつてヤヨイちゃんぐらいの年頃にね、夢のように出逢えた大切な人が若くして命を落とした場所が、ここなんだよ』
「え〜本当に?」
 ヤヨイはローダンゼの鮮やかなピンク色に染まった花びらを見つめながら驚いていた。

 俺は、たったひとつだけマリに誇れることがある。そう、それは21年間、俺のバイクのタンデムシートには誰ひとり乗せなかったことだ。たとえ妻でさえも。
「あなたは相変わらず、わたしのいうことばっかり聴き過ぎよ。馬鹿ねえ、もう充分。わたしのことを、いつまでも引きずらなくていいわ。それより、これからは、あなたの奥さんのことをもっと大切にしなさい」
 マリに叱られそうな気もするけど・・・
 なにせタンデムシートは、今もきみだけの指定席なのだから・・・

 人生

 生きていたいけど
 生きていられない

 生きていたくないけど
 生きなければなない


著作者:北野一機   著作者の作品一覧へ   ホームへ
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